記憶の断層

2009年7月27日 (月曜日)

記憶力は怪しく、記録は気まぐれなうえに散逸してしまうのが私の性向なので、ホームページを開設したのちは、聴きにいった演奏会の覚書をホームページに記すことにしてみた。

「してみた」といったが、もうかれこれ7年分くらいはたまってきた。

ところで、先々週に行ったバレンタイン(SVBE)の感想文をいまだアップできずにいる(ここでいうアップには、書き上げるという意味と、アップロードの意味の2つがある)。

一番大きな理由は、N村さんのページに前史から始まるバレンタイン大河物語1Q××シリーズが連載中ということである。
思わずこれを読みふけってしまい、また数々の新発見があり、バレンタインに関して書こうとするとこれを避けて通るわけにはいかず、怖いもの知らずで勝手な戯言を並べるのが甚だ難しくなっているからである。

しかし、いつまでもそうこういってられず、次のKlangも聴いてしまったばかりなので、早いとこアップしようと思う。

記録文化のアングロサクソンもかくやというN村さんの詳細な記録が、当時の自分の記憶を掘り起こし、たいへんに興味深く、また郷愁すら誘う。

それによると、私が最初にSVBEの演奏を聴いたのは、1986年6月8日(日)であったらしい。
大友直人さんの指揮で『展覧会の絵』がメイン。その曲の前には『王宮の花火』。おぉぅ、そんなすごいプログラムだったのか!
そう、大友直人さんが振るという光景は覚えている。田舎からぽっと出の青年(私)にとって、そんなメジャーな指揮者と一緒に演奏するなんて、と、バレンタインの偉大さをまざまざと見せつけられた日であった。

演奏曲目ばかりか出演者もしっかりと記録されているN村さんの綴るバレンタイン1Q××シリーズには、なんとうちの奥さんの名も登場しているのであった(1990年6月17日(日))。トラでパーカッションをしたのだろう。

その記載の続きによると、バレンタインは1990年6月23日(土)には、日本橋三越本店で山形物産展の余興演奏をしていることになっている。

これって、もしかして私も演奏にご一緒させてもらったものかしら。
「山形物産展」だったというのは初めて知ったが、日本橋三越で吹いた記憶は、たしかにある。
何しろ当時は、S田さんかS村さんあたりから、「今度の○曜の×時、△△(場所)へ来て。必修」とかいわれて、「はい、分かりました」というのが当然の姿であった。多少の誇張はあるが。
だから、三越でSVBEに混ぜてもらって吹いた記憶はあるが、それが山形物産展だとは知らされてはいなかったし、当日もほとんど初見の譜面を追うのが精一杯で、周囲の状況を見る余裕など何もなかったということしか憶えていない。

このたびのN村さんの記録を見ると、この三越営業はバレンタインの定期の翌週(というか、日曜本番のその週の土曜)のことであり、そのための練習をやっていたとは思われず、私は、営業慣れしたSVBEの方々の手馴れた演奏のなかで一人足を引っ張っていたのであろうと、まったく冷や汗が止まらない。

遡って、1987年11月3日(火・祝)。
第1回日本アマチュアブラスアンサンブルフェスティバル。

NABEOである。
いかなる事情でこれが発足することになったかという経緯も、1Q××シリーズを読んでいると浮かんでくる(つまり、前年のバレンタイン&大阪んのジョイントコンサートがきっかけになったということらしい)。

ところで私個人もこの第1回のNABEOには関係させてもらった。
といっても、出演したわけでもなく、サントリー小ホールに聴きにいったわけでもない(たぶんそうなのだ。その記憶がないから)。
何かというと、Y本さんからいわれて、NABEO打ち上げのセッティング等の下働きとして働いたということである。
これもN村さんの記載によると幹事団体はフェスタということであるから、もしそうならフェスタの誰かからいわれたのかも知れないが、いずれにしろY本さんの「部下」であったことは一緒であるから、たいした問題ではない。
NABEO第1回は、サントリーの小ホールで華々しく開催された。
時は1987年。歴史の教科書的にはバブル時代である。
打ち上げも、さぞ華々しく、赤坂か六本木で豪勢に行われたとお思いだろうか?

ぜんぜん違う。

第1回NABEOの打ち上げは、駒場東大の学生食堂において、とにかくローコストで執り行われた。
今は知らんが、当時、学生食堂を借りてコンパをすることができた。
場所代はなしで、飲食はほぼ原価。持ち込み何でもOK。とか、そんな感じだった。
その代わり、机や椅子を並べたり、食べ物や飲み物を並べたりするのは、ぜんぶ自前でやる、とそういう場所だった。

なんの遠慮もなしに楽器が吹ける、というのも特筆すべき特長だろう。

で、生協に予約をしたり、人足をしたり、会計をしたり、みたいな下働きを現役生が担当し、東大だけでなく近郊の他大学からも駆り出されて来ていたのであった。

それが私とNABEOの最初の出会いであった。

2009年7月23日 (木曜日)

最初の名刺は、会社にはいってからではなく、実は東大オケ時代のことであった。
「外務」という仕事があり、それに使うためといって、団から支給されたのである。2年生のときだから、まだ二十歳だったという計算になる。
ちなみに外務というのは、公演のマネージャーのようなものであり、毎年夏にコンサートツアーにでる東大オケでは、地方出身者にこの役が回ってくることがあった。私は「長野外務」であった。(注:東京公演もあるので、東京出身の東京外務というのもある)
どんな仕事をするかというと、ホールを押さえ、地元の団体等に後援や協賛を求めたり、これが一番たいへんな仕事なのだが、さまざまな伝手(主に東大OB)を頼ってチケットを捌いたりと、けっこうかなりたいへんな仕事ではあった。
地元の企業やマスコミを訪ねたりすることもあるので、名刺が支給されるのである。

だが、まだ学生の分際だし、サラリーマン家庭でもなかったので(それが関係あるかは分からないが)、今から思えば名刺交換の仕方すら知らなかったわけで、まことに汗顔のいたりである。

ともかく、その長野外務としての活動の一環で、地元の銀行を訪ねた。
当時存命だった私の祖父の伝手であった。
詳説は避けるが、そのとき祖父のおかげで、いわばトップダウンの形でその銀行の方に「お願い」をさせていただいたのである。

そのトップダウンを受けた方と私は名刺交換をさせていただいた。その方は東大OBというだけで(断っておくが、東大オケOBではない、ただの東大OB)、わけのわからない学生の相手をしてくださり、そのあとも公演まで何かと面倒をみてくださった。

会社員の今なら分かる。
それがどんなに不遜なお願いであったのかを。
そして、トップから「これやっといて」と名指しされた方が、どんな思いでいらっしゃったのかを。

嗚呼、思えばたいへんに失礼をしたような気がする。

とは言え、使えるものは何でも使ってサマコンをやるというのも、若さの特権として許していただければと思いたい。

で、そのときにお世話になったその中堅行員の方なのだが、苗字は覚えているのだが、下のお名前が分からない。いただいたお名刺はもしかしたら探せばあるのかも知れないが、怪しいものである。

このような20年以上前の思い出を書いてきたのは、実は別件で調べ物をしていたところ、現在その銀行の頭取になられている方の苗字が、当時お世話になった方と同じということに気づいたからなのである。

も、もしかして、あのY浦さんだろうか?

よしんばそうだとして、先方は覚えてはいらしゃらないと思うけど。

ちなみに、優良地銀の誉れ高く、もちろん地元ではトップ企業で、弊社の大株主様でもいらっしゃいます、82

2009年5月13日 (水曜日)

高校のときに、トロンボーンの後輩でE君という人がいました。
一方、先輩のOさんという人がいました。
E君は、吹奏楽部にはいったのですが、云わばOさんと反りが合わなくて、数ヶ月で退部しました。

というアウトラインの記憶を呼び醒まされた。

で、この歳になるとかなり朧気で怪しい記憶になるのである。

トロンボーンの私の同期は私とY君の2人で、1つ下の学年はO君とSさんの2人だった。
それをよく覚えているのは、その4人のカルテットでアンサンブル・コンテスト(東海大会)に出たからである。
Oさんも確かにいた。一緒にアンサンブル・コンテスト(東海大会)に出たのは覚えているし、学園祭のステージ用の振り付けを一緒に考えたりしたことも覚えている。

怪しくなるのは、ここら辺から。
先輩にはたしか、Fさんという人とMさんという人がいた。しかしこの方々は2年生だったのか3年生だったのかはっきりしない。
Nさんという豪快なトロンボーンを吹く女性の先輩は、たしか既にOGだったと思う。

う~ん、E君は1つ下だったのだろうか?
でなければ、Oさんと反りが合わなくて辞めるというような学年関係にはならないわな。

私自身は、Oさんとは悪い関係ではなかったし、E君にもそう嫌われているわけではなかったと思うので、その間に挟まって神経をすり減らしたこともある(嘘)。

そんなことをふと思い出したのであった。

彼・彼女らは今、どうしているのだろう。

2008年11月16日 (日曜日)

フェスタの昨日の演奏会で、いくつも感銘を受けた。
真面目な感想は別に記すことにして、ここでは番外編的なことを書きたい。

感銘を受けたことの一つに、W松さんの軽妙な司会がある。正確に言えば、曲間で、ステージから降りずに、すぐさまマイクを手にして、しゃべり終わると楽器を持って吹き始めるそのスタイルに、である。
同じことを何度も書いているが、これをやる管楽器奏者にはいつも感心する、口は渇かないのか、と。プロだと、森金の杉山さんとか、ジパングの吉川さん。NABEO関係だと、S根さんとかが思い浮かぶ。

ところで、「W松さん」と私は記すのだが、プログラムやウェブサイトで探しても、フェスタのメンバーにW松に相当する名前は発見できない。何故なら、W松さんは、普通に記せば「M田」さんだからだ。フェスタのなかでも、M田(さん)と呼ばれておられると思う。
では何故W松さんと記すかというと、私が初めて会ったとき「この人はW松さん」と教えられたからである。

初めて会ったのは、大学でオケに入った年である。W松さんは2つ上の先輩であった。

新歓合宿というのが5月の連休のときにある。はいって直ぐに山の上まで連れられていく。オケの合宿だから、総勢100名以上になる。金管だけでも、新入生を合わせると30人近い人数だった。夜は当然宴会(コンパと呼んでいたが)。セクションごと分かれる。

その場で、新入生に対しては、先輩の名前をちゃんと覚えているか、ということが試されたりするわけだ。

ここでT大の特殊事情を書いておくと、教養課程とその後でキャンパスが別になっている(駒場と本郷)ため、新入部員が3・4年生の先輩と顔を合わせる機会が少ないということがある。
駒場にいる2年生の先輩とは、ほぼ毎日顔を合わせているわけだが、入部して1~2週間ほどの身では、本郷生の先輩とは距離が遠い。

コンパの席で突然この人の名は?と訊かれても、「えっと…」と詰ることもある。
もちろん、そういうのを打ち解けていくために合宿をしているのだが。

で、そういう席でのことだと思うのだが、W松さん(本当はM田さん)の名の由来についての説明があった。
それは、W松さんより上の楽年に同じM田さんという苗字の方がいらっしゃって、W松さんはその方と区別するために、「若いM田」という意味でW松と呼ばれるようになった、ということであった。
W松といえば、連想するのは会津若松という地名である。W松さんは仙台の出身である。東京からすれば、同じようなイメージがあって(ぜんぜん違う!!)、W松さんという通称が定着したように思われる(^^)。

ともかく、昔からしゃべるのが上手な方であったが、相変わらず聞き手の気を逸らさない司会ぶりであった。

話す内容も興味深かった。
そのひとつに、(トリでやった)『アフリカン・シンフォニー』は、今では甲子園の人気曲で今年は出場55校のうち実に50校が演奏したという話があった。
いったいどこでそんなこと調べるのかい、まさか、甲子園の試合を全部観たのか?と思ったが、元ネタ発見。

そもそも『アフリカン・シンフォニー』を演奏会のトリに据えるとは、何とも大胆なプログラムでは、と聞く前は思ったのである。

ところで、『アフリカン・シンフォニー』の作曲をしたヴァン・マッコイは『ハッスル』の作曲者である。一説には『ハッスル』はスタジオの待ち時間に30分くらいでチャチャッと作ったものらしいが。

で、ヴァン・マッコイには『ディスコ・キッド』という曲もあるらしい(ただし作曲は別の人で、マッコイがアレンジをして録音・リリースした)。もっとも、手元のCDのライナーでは「ヒットした」と書いてあるのだが、私は巷で耳にしたことはない。ただ、そちらは1975年で、課題曲のそれ(1977年)より前。いずれにしろ、世の中ディスコ・ブームだったのね(サタデーナイトフィーバーは1977年。ただし、日本公開は1978年。それを考えると、ディスコ・キッド(東海林版)の先進性がうかがえるでのはなかろうか)。

2008年10月23日 (木曜日)

みんながお金持ちになったら意味がない、というので思い出したことがある。

リーダーシップというのも、これまたみんなが持っていたら意味のないものなのではあるまいか。

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小学生のころ、これを求められるのが嫌だった。
何らかの折に、教師はこれを私に求めることがあった。
学級活動だったかも知れないし、体育の場面だったかも知れない。よく憶えていない。嫌だったから。

もしかしたら教育指導要綱にそういうものがあって、すべての子供にリーダーシップをとる機会を与えるというのが課程としてあるのかも知れないが、私はこのリーダーシップを求められるのが、不思議で、嫌でならなかった。
穿った見方をすれば、私は学業の成績が良い子だったので、そういうリーダーシップを求められるのか、などと不遜な考えも抱いてしまったほどである。
確かに、エリート主義的な考え方からすれば、学業成績が良い人間が社会の指導層になる蓋然性が高いので、そういう人間にはリーダーシップを身につけさせようとする考え方も、ないではないだろう。

しかし、前に書いたことがあるように、私はアオレンジャーなのである。大鷲のケンよりもコンドルのジョーに親近感を覚えるのだ。

だから、人のうえに立って旗を振るというのは、とても苦手に感じる(その面白みが分からないではないけれど)。
そういうのが得意で、リーダーに向いている人というのは、生来のタイプとして存在するのではなかろうか、と思う。
人を惹きつけ動かすというのは、どう考えたって学業的な優劣ではなく、別の感性である。

リーダーというのは、大勢を率いる役割である。
みんながリーダーになってしまえば、船頭多くして何とやらの以前に、言葉の定義矛盾に陥る。すなわち、率いられる者がいるから、率いるリーダーが成り立つのである。

私はどうもこう考えてしまうので、生命力に欠けるのであろう。

勝負事ということを考えても、負ける人がいるからこそ、初めて勝つ人が生まれる、つまり、負ける人も勝つ人と同じだけの存在意義がある、という発想のため、「どうしても勝たねばならぬ」という気概に乏しいのである。

2008年9月15日 (月曜日)

子供(小学生)のころの夢のおもちゃと言ったら、ラジコンだった。まさに憧れの存在で、小遣いを握りしめてプラモデルを買いに行く近所の模型屋では、手の届かぬ一番高いところに、プロポとラジコンカーのキットが誇らしげに掲げてあったものである。
「普通の」プラモデルが1つ500円だったのに対し(ちょっとマイナーな軍艦のプラモデルが、部品が多く楽しめるのに対し400円と割安なのがあったりして、掘出物とでもいうように重宝したりしてた)、ラジコンカーは桁が2つは違い、3万円とか、そんな感じだった。小学生の分際には、とても手の届く代物ではなかった。

以後、ラジコンを買うことが難しくはなくなってからも、結局買ったことはない。

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子供の誕生日プレゼントを物色しに、某アメリカ式大型玩具店へ一家で行く。
最近のラジコンカーは安い。
もう、夢にも憧れにもならないくらい安い。
それは、日本の経済力万々歳ということなのだろうが、手にはいらぬまでもワクワクと憧れ胸をときめかせた頃と、たいして有り難みもなく手にしてすぐに飽きてしまう今と、果たしてどちらが幸せなのだろうか?

と、月並みなことを書きつつ、手軽に室内で飛ばせるようになったラジコンヘリは、そのうち買ってしまうのであろう。奥さんも欲しがっているし。
そういえば、一昨日奥さんはおもちゃのテルミンを衝動買いしていた。

店内で、「そうだ、あれが欲しい」と思って探したが見当たらなかったのが、地球独楽。

2008年9月 9日 (火曜日)

ホルストシュタインさんは、私が中学生のころ、N響アワーで盛んにその指揮姿が映されていた。

中学のブラバンで、仲の良い後輩と「ホルストシュタインごっこ」というのをやった。
何とも酷いもので、他愛がないというか、デリカシーがないものであった。

「ホルスト、シュタインっ」と言いながら、最初は右手で目の上にひさしを作って前へ伸ばし(ホルスト)、次にその右手を頭部に沿って上から後頭部へつるりと回す(シュタイン)という、一種のボディサインである。

それほどつまり、ホルストシュタインさんをTVで見たとき、まずあの日本人にはあり得ない彫りの深い骨相に、強い印象を刻まれたのである。
額が張り出し、眼のうえにひさしがかかっているようになっている形相は、否応なしにヨーロッパを感じさせるものであったのであろう。

2008年7月24日 (木曜日)

八戸は10年に一度くらい大きな地震が来る所である。

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子供がラジオ体操をいたく気に入ったのは、かなり意外だった。

自分の小学生のときを思い返すと、ラジオ体操を心待ちにしてはいなかった。むしろ、気が重い類の事柄であった。

ただ一つだけ憶えていることがある。

ラジオ体操というのは、地域ごとにやるもので、同じ町内に住んでいる子供たちが集まり、普段学校でつきあいはない違う学年の子と一緒になる。
余談だが、夏休みには町内会対抗でソフトボールや野球大会があって、練習に駆り出されたのを思い出した。これも私的には(やり始めるまでは)気が重い事柄であった。

さて、小学校の高学年になったばかりのことだったろうか、ラジオ体操の後か、それともラジオ体操は休みという日だったのか、定かには憶えていないのだが、上級生の誰かが言いだした。

「明日、探検に行こう」

科白は正しくこうではなかったと思うが、そういう内容である。

もちろん、親たちには内緒である。それは、暗黙の了解だった。そのことが分かるくらいの社会性は、私にもあった。

当時私が住んでいた町は、S市の「街中」という位置づけの場所だった。
ラジオ体操を行なう公会堂に朝早く自転車で集合した私たちは、上級生の後ろについて走り出した。
向かう先は、街を抜け、いくつかの集落を通り過ぎた先にある、とある川の河原である。ちなみにその川は、日本一長いことで知られている。

学校の通学範囲からは、優にはみ出した所である。規則で子供たちだけで行っていいとされる限度を、はるかに超えていた。

今から考えれば、また私立に通うとすれば電車を使うのは当然である都会生活からは考えにくいことだが、当時の田舎の小学生の行動範囲なんて、それはそれは狭いものである。
探検の目的地は、距離にすればほんの数キロの先ではあった。

しかし、子供だけでそこへ行こうというのは、普段はしない冒険でもあった。

晴れた夏の日、一行は無事、河原に到着した。
鉄橋の下に潜り込んで1mほど上を走る電車を下から覗き込んだり、川の中州に渡って水遊びをしたりした。そして、また自転車に乗って帰ってきた。怪我をした者もいないし、肝を冷やすようなアクシデントもなかった。

だが、今だから分かるが、そんなことが親たちにバレないはずはないのである。
ただ、別に叱られはしなかった。

ラジオ体操というと、思い出すのはこのことである。

それを考えると、あと数年もすると、うちの子も、子供だけでどっかに行って、私たちをハラハラさせるのであろうな、と分かるわけである。

私たちの水遊びも、子供には何の危険も感じられないが、その時は好天でも、前に雨が降っていたら増水していただろうし、流される危険だってあるわけだし、行き来の間の交通事故だって心配だ。

けれども、そうやって学習していくしかないのだとは思う。

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2008年7月13日 (日曜日)

森永ラブというのは、ある年代の首都圏の在住者に、とても馴染みのあるものなのかも知れない。

ある年代、と書いたが、つまりは私と同じような年代である。アラフォーってか?

この記述をするに当たり調べて知ったが、この森永ラブはもう存在しない。なので、どんなものか想像もできない方のために説明するが、ハンバーガー・ショップである。

1980年代中ごろのことである。
一人の高校生が長野の田舎から上京しようとしていた。
彼に指定された待ち合わせ場所は、国立駅前の森永ラブであった。

彼とは私のことである。
もしかしたら時間に遅れるかも知れないから、そこでコーヒーでも飲んで待っていてくれとのことであった。

「モリナガラブって何じゃらほい?」

当時は、ファーストフードという言葉はまだ定着していなかったと思う。メールという交信手段もなかったので、電話による音声通話により、この待ち合わせ場所が通知された。
だからこの時点で、私の頭のなかには「モリナガラブ」という仮名の塊でしか認識されていない。

今ならこんな感じである。
「駅前にマックがあるからさあ、ちょっと遅れるかも知れないから、そこで待っててくれる?」

関西ならマックがマクドになるらしいが(フランスも同様らしい)、それでも今どきの田舎の高校生なら、上に記したのは通じるのではあるまいか。

しかし、20年前の田舎の高校生には、モリナガラブは通じなかった。

コーヒーでも飲んで待ってて、という指令、および待ち合わせという状況から、高校生の私が推測したのは、モリナガラブという名前の喫茶店でもあるのだろうか、ということだった。

また、ハンバーガー・ショップでお茶をするというのも、当時の私には考えつかなかった。
ハンバーガー屋は、あくまで食事をするところとして認識されていた。

だから、まさかモリナガラブがマクドナルドのような体裁をしているとは思いもよらなかった私は、その待ち合わせ場所を発見することができなかったのである。

今になって事情は分かるようになった。
まず、森永ラブは首都圏にしか存在しないものだったし、まだ田舎では貴重な存在だったハンバーガー・ショップでは、気軽にお茶をするところとして認識されてはいなかったのである。

だいたい、森永ラブというネーミングは、一種異常ではなかろうか。

牛丼チェーンの名前を思い浮かべよ。
吉野家、松屋、すき屋、なか卯、神戸ランプ亭。
個人的には、なか卯はうどん屋に思えるが、まあ押しなべて牛丼屋と言われれば首肯できるネーミングであろう。

しかし、森永ラブがハンバーガーショップというのは、私にはどうもピンと来ない。
森永と言えば甘いものだし、ラブとハンバーガーは、何とも結びつかないのであった。

だいたい、モリナガラブが森永ラブだと判明したのは、何とか落ち合うことができた後のことである。

森永LOVEがハンバーガー屋だなんて、牛丼屋にハッピータムタムとかつけるようなものではあるまいか。

2008年6月 1日 (日曜日)

ウォークマンが登場したのは1979年。
長野の田舎でもそれを見かけるようになるまでそう月日はかからず、その後数年のうちに周囲で目にするようになった。

叔父さんがまず手に入れた。その昔はハムもやっていた趣味人である。

第一印象は「小さっ!」

今でこそ日本のマニファクチャラーが何でも小さく作るのは当たり前のように受け止められているが、当時のステレオを聞く装置のサイズからすると、ポケットにはいるというのは衝撃的だった。
だが、私がそんなウォークマンを強烈に欲しいと思ったのは、それをつけて街を歩いている人を見たときではない。街中を行くときに好きな曲を持ち歩けることには、そんなに魅力を感じなかった。

しかし、あるときウォークマンは素晴らしいと感じ入ったシーンを目にしたのである。

当時私は吹奏楽部員だった。

一つ上のTuba先輩(♂)がウォークマンを手に入れた。 部の皆で旅行に行くことがあった。多分アンサンブル・コンテストだと思われる。

Tuba先輩はウォークマンを持ってきていた。ウォークマンの一方のイヤホンはTuba先輩の右耳に、そしてもう一方のイヤホンはClarinet先輩(♀)の左耳にはめられ、二人は頬を寄せあってテープを聞いているのだった。

私は、このTuba先輩を盲目的に崇拝していたり、Clarinet先輩に熱い憧れを抱いていたというわけではなかった(二人とも楽器の上手な先輩として尊敬してはいましたよ)。また、この二人は付き合っていた、というわけでもない(たぶん)(*)

しかし、このシーンは正直言ってうらやましかったのである。

ステレオの音を片チャンネルずつ聞くなんて、モノラル録音をイヤホンで聞くほうがずっと真っ当な音だろうに、このシーンがウォークマンに対するわが物欲を一気に高めたものである。

もっとも、その後手に入れたのは、あまたのメーカーから出されたゾロ品のひとつだったけど。

(*)あとから読んでいて気がついたけど、もしこの二人が付き合っていて人前でウォークマンをこのように使っているという状況だったとしたならば、逆にウォークマンは対して反感を抱いたであろうような気がする。

2008年5月26日 (月曜日)

身辺を整理していたら、えらく懐かしい写真が発見された。

Ssb

定かではないのだが、写っているメンツから計算するに、おそらく1984年3月ではないかと思われる。場所は、(たぶん)今はなき市民会館。
演奏会のとき、後ろに団旗(そんなものあったんだ)を掲げているのが、何とも言えない。
こちらから見て右から2番目に写っているのが不肖私である。今と吹き方あんまり変わってないのかも(*)。
私の隣の隣でホルンを吹いているのは、N響のM崎さんである。当時、N響ClのU山先生に時折バンドレッスンを受けていた関係で、コンサートに遊びに来てくださったものと思われる。
やっている曲は、ジャストブラスの譜面で、ズザートかクラーケンではなかろうか。トップ奏者とバストロ、テューバ奏者が写真のフレームから外れていて残念だが、たしか同期のMやYが吹いていたはず。

(*) よく見たら、スライドを持つ右手が今と違っている。当時は、スライドの支柱を、親指と、人差指・中指・薬指の3本でホールドしていた。今は、人差指・中指の2本。そう言えば、大学のときに持ち方を変えたような気がする。

2008年5月 8日 (木曜日)

一度だけ乗ったことのある白タクは、燃費スペシャルだった。

もう10年になるだろうか、今では考えられないことだが、その日私はしこたま聞こし召して帰りの電車を乗り過ごしてしまっていた。別にその白タクに司直の手が及ぶのを防ぐ趣旨ではないが、何線の何駅だったか記すことはできない。よく憶えていないのである。たぶん、北総方面(*1)。季節すら定かでない。冬だったような気もするし、夏だったような気もする。

上り方面の終電はもう行ってしまったことを知った私が、改札を出てさてどうしようとフラフラしていたところ、元気のいいお兄さんに声をかけられた。
「どこまで帰るの?東京方面?どこ?○○までなら××円でいいよ。東京方面はなかなかタクシー来ないよ」
このようなことを言っていた思う。(正規の)タクシー乗り場は長蛇の列だった。
「東京方面はなかなかタクシー来ない」という言葉のおかしさにも気づかず、気の弱い酔っぱらいの私は、言われるままお兄さんについていった(*2)。駅から少し離れたところに車(*3)が置いてあった。

お兄さんはドアを開けて私を後部座席に押し込んだ。
「ちょっと待ってて。今、常連さんが来るから」
こう言うとお兄さんは、携帯電話を片手に、再び駅のほうへ戻っていった。

私はひとり車に取り残された。
(…これは白タクというものではあるまいか? 別にお金を持っていないわけでなし、こんな違法なものに乗っていって大丈夫だろうか…)
遵法意識の高い(*4)私は、酔った頭をめぐらせて考えた。

お兄さんが戻ってきた。客を連れていた。私と同じサラリーマンらしき格好をしていた。
「ちょっとごめんね、詰めて乗ってね」
それまで私が一人ぽつねんとしていた車内はたちまち充満した。
「えーと、もうちょっと待っててね。**分の電車でもう一人来るから」

お兄さんには常連の顧客がついているらしく、携帯電話(*5)を駆使して連絡をとっている様子だった。
車内に詰め込まれたまま、また数分間待つ(*6)。
ちょっとは酔いも覚めてきたので、こんなことなら列に並んでいても同じだったという考えが頭をよぎる。

お兄さんが一人の女性を連れてきた。彼女が「常連さん」ということらしい。

定員いっぱいに詰め込んで、お兄さんの車は発進した。
乗車位置については、お兄さんの厳格な指示があった。どうやら降りる順を考えてのことらしい。

ようやく発車したのも束の間、何の断わりもせず、お兄さんはハンドルを切ってガソリンスタンドに入った。
お兄さんは、店員に10リットルだけと言って給油をし、現金で支払いをした(*7)。

再び車を出したお兄さんは、東京方面に向けて走り、客を一人一人降ろしていった。

こうして私は帰宅したのであった。

お兄さんはスタンドでガソリンを10リットルしか容れなかった。いや、もしかしたら5リットルだったのかも知れないが、その日に使う分だけを毎日容れている感じだった。

少しでも車体を軽くして燃費を稼ぎ、コストを切り詰めるお兄さん。

会計的に考えても、客からは現金でしか受け取らず(*8)、ガソリン代は毎日最低限のものだけを支出するわけだから、キャッシュフローにも優れている。

地球環境的に考えても、乗客をまとめて配送するわけだから、彼らがそれぞれ1台ずつのタクシーに乗っていくことに比べたら、これまた優れているわけだ。

惜しむらくは、ナンバープレートが白いのであった。

(*1) 北総:房総の北部。房総とは安房の房と上総・下総の総がくっついたもので、要するに現在のC葉県を指す。
(*2)言われるままついていく:ニューヨーク辺りだったら大変危険ではなかろうか。よく知らないけど。
(*3)車:定かではないが、ゴルフのIIだったように思う。
(*4)遵法意識の高い:大嘘である。
(*5)携帯電話:このような記述から考えるに、世間に十分に携帯電話が普及したあとの出来事と推定できる。私が携帯電話を使うようになったのは遅く、今世紀にはいりずいぶんと経ってからだが、記憶によると一気に普及するようになったのは各社がタダでばらまいていた時期だから、1997年とかだとその辺じゃないかと思う、猫も杓子も持つようになったのは。そう考えるとたかだか10年程度である。
(*6)待つ:(一応)タクシーなのに、行き先を告げて乗り込んでから直ぐには発車せず待っているというのは、ちょっと妙な感覚だった。乗り合いタクシーみたいなのはそうなのかも知れないけど。
(*7)店員に言って給油をする:このような記述から考えるに、セルフ式スタンドが普及する前の話だと思われる。本文に記したとおり、この白タク運転手はコスト意識が高く、セルフ式スタンドがあったら、価格の安いそこを利用していたに違いないからである。記憶によるとセルフ式スタンドがぼちぼちとお目見えするようになったのは1999年ころであるから、それ以前の出来事だったと推測される。
(*8)現金商売:あるいは常連さんはツケが利くのかも知れない。

2008年5月 3日 (土曜日)

(承前)

小学校のときケンイチくんという同級生がいた。

私と同世代(昭和40年代生まれとかその辺)の方はお分かりいただけると思うが、ケンイチくんはクラスの人気者であった。
これはもう、我々の世代のケンイチくん、もしくはケンジくんでもよいが、通称ケンちゃんといったら、クラスの人気者になることは約束されているようなものなのだ。
おそらく、同世代の方ならクラスに一人はケンちゃんがいたのではなかろうか。そして、多くのケンちゃんは人気者だった…

もちろんケンちゃんという名前であるだけで人気者だったろうという決めつけは甚だ不穏当なものであることは承知しているのだが、それでも身の周りの人気者のケンちゃんに思い当たりがある同世代の人は少なくないのではあるまいか。

我々の世代には「ケンちゃんシリーズ」という人気番組があった。「すし屋のケンちゃん」「ケーキ屋ケンちゃん」「ケンちゃんチャコちゃん」など。
牟田悌三氏がお父さん役で出演するホームドラマで、主人公はもちろん小学生のケンちゃん。

実は私はこの番組をそんなには見ていないのだが、誰もが知っているシリーズだった。のちにこれをパロったポルノ作品まで出現したくらいである。

ケンちゃんだけではない。狼少年もケン(実はタイトルしか知らない)だったし、ガッチャマンも大鷲のケンだった。

明治生命が戦前からやっている名前ランキングによると、ケンちゃんシリーズが人気を博した昭和40年代に「健一」という名前がベスト10に登場してきているのが分かる。以来この健一はかなりの間人気の名前となっていたが、ケンちゃんシリーズの人気の低落そして放送終了と時期を合わせるようにして、ベスト10から消えていく。
もっともケンちゃんの人気はその後も根強く、平成の世にはいっても「健太」としてランキング入りはしているが、一時期ほどの勢いはない。
現に子供の小学校の名簿を見ても、同じクラスにケンちゃんはいないようだし、学年でもケンタくんが一人いるだけである。

私の同級生のケンイチくんは、憲一という字をあてていた。
ケンちゃんは自分の名前を説明する際、こう言っていたものである。
「憲法記念日の憲に、数字の一」

社会科で国の仕組みなどを習う前の小学生にとって、の字は、カレンダーに赤い字で記載され祝日で学校が休みだという特別な日に使われる字として認識されているのであった。

つまり、常用漢字「憲」を平均的日本人の子供が最初に認識するのは、「憲法」という単語ですらなく、「憲法記念日」という言葉のセットにおいてなのである。私は断言できる。小学生にとってこの言葉はワンセットだ。あとから「憲法を記念する日である」ということに思い至るのであると。

毎年、憲法記念日がくるたび、私はケンちゃんのことを思い出す。
…わけではないが、今年は思い出した。

(了)

2008年4月22日 (火曜日)

さがした歯医者に行く。

子供の乳歯を抜いてもらう。
前歯が下から出てきていたので診てもらいに行ったのだが、永久歯が出てきたのが内側からだったので歯並びに影響はほとんどなく、抜いても抜かなくてもどちらでもよいと言われた。しかし、奥さんとそのお母さんさんが乱杭歯になるといけないからということをいたく心配していたので、ピョイっと抜いてもらった。

私も前の乳歯がなかなか抜けず、抜いてもらった。ちょうどそのころ従兄の一人が歯科大の学生で、その練習台にさせられた。初めて人の歯を抜いたのが私の歯だった。

…と思っているのだが、本当のところどうなのだろう。

ともかく、子供の歯がグラグラし始めたとき、その話を面白おかしく話して聞かせていたので、歯医者に対する恐怖は人一倍膨らんでいた模様のあいちゃんだったが、殊勝にも歯を2本抜かれたのであった。

2008年4月 5日 (土曜日)

私が初めてスキーをした当時は、リフトというのは1人乗りのものだった。
だから初めて乗るときは大変緊張した。
2人乗りのペアリフトなどは後から登場してきたような気がする。そのうちバブル期になり、現在では考えられないほどのスキーブームが訪れ、スキー場には相応の投資がなされた。『私をスキーに連れてって』でセリカGT-4(多分)が夜中の小布施の町をぶっ飛ばすばかりか、ゲレンデにも乗り込んでしまったという時代の話である。ちなみに、リゾートミュージックの女王はまだユーミンだった。広瀬香美のデビューまでまだ数年を残す。

リフトがペア化したことにより、スキーに行くという行為には社交性が必要になった。
これはもうカップルで行かなければ肩身が狭い、ということはなかったが、友人たちと、できれば男女交えて行くのがもっとも都合がよいという状態になった。

なお、海に行くという行為は、海なし県の住人にはかなりの大旅行となる。

2008年3月23日 (日曜日)

つくばに都心方面から公共交通機関で行くには、今でこそつくばエクスプレス(私は未乗車)でダイレクトだが、それ以前は東京駅からバスに乗るか、常磐線で荒川沖まで行ってバスに乗り換えるかだった。
私は、常磐線沿線に住んでいたこともあり、つくばに行くのは、車でなければ、もっぱら常磐線だった。一度など、荒川沖の駅からノバホールまで歩いたこともある(1時間以上はかかった)。
つくばに行って帰って来るときは、たいてい誰か(主にT木くんとか)に荒川沖まで車で送ってもらうのだった。

う〜む、荒川沖。痛ましい事件だ。

2008年2月 8日 (金曜日)

承前

ゲイラカイトをコピーするとき、元にしたのは弟が買った本物である。

コピーしていく過程で、ゲイラカイトの秘密が分かってきた。
まず、本体はビニールで出来ている。それまで日本で揚がる凧は和紙で作った物であり、ゲイラカイトはビニール製なのが画期的だった。これは合理的であった。和紙(と言っても障子紙だが)を貼って作る凧は、重量がかさむ。ビニールという素材は軽くて丈夫で湿気にも強い。
軽くて丈夫なのは、凧の骨についても言えた。それまでの凧は、竹ひごを紐で縛って骨を組んでいた。しかしゲイラカイトは違った。ゲイラカイトには合計で4本の骨が使われているのだが、そのうちの縦の3本はプラスチック製だった。それにクロスさせて横に渡す骨だけが、丸い木製の丈夫な棒だった。
そもそも使う骨の分量が、竹ひごに和紙で作る凧に比べ、面積当たりにして少ない構造だった。
ちなみに、ゲイラカイトの骨組みは、こんな感じになってる。→ 【 /十\ 】
和凧と違って、尻尾を要しないのも大きな特徴である。凧の尻尾はバランスを取るためにあるわけだが、なるべく上に揚げることを考えると、重量物にしかならず、小さければ小さい方が有利だ。

それまで普通の和凧は作ってみたことがあった。
ある程度骨組みを丈夫にしないと、凧が風に負けてふにゃにゃになってしまうのだが、丈夫にするため骨を多く渡すと今度は重くて揚がりにくくなる。そのジレンマを感じていたところ、ゲイラカイトの軽くて丈夫な作りに感心した。

コピーに当って、材料は次の物を用いた。本体はビニールのゴミ袋。現在のように自治体の指定袋になる前の、黒いやつ。ここに弟の本物を重ねて型取りをした。1枚では薄くて弱過ぎるので、2枚重ねにした。
骨は竹ひごを使うしかなかった。一番のポイントは、横に渡すヤツで、この骨の強度が足りないと、風をうまく捉えられずちゃんと揚がらないのであった。

いざ出来上がったコピー品(バチ物)をグラウンドに持っていった。
驚くほどよく揚がった。糸が全部出切ってしまうほどだった。そのため、2本分の糸をつなぎ合わせ、それを巻いておく糸巻きも自製した。
冬空に揚がる真っ黒なカイトは、ゴミ袋で作ったとは思えないカッコ好さだった。

ただし、本物のゲイラカイトには適わなかった。これは私だけが気づいていたことである。骨、特に横骨の強度がどうしても足りず、本物よりも揚がる角度が小さかったのである。

しかし、手作りの凧としては敵なしだった。
冬休みの宿題で凧を作っていくというのがあった。宿題帳には普通の和凧の作り方が載っていて、たいていの級友はそれに則った凧を作ってきたのだが、私はゴミ袋カイト(バチ物)を持っていった。当然のことながら、一番よく揚がり、学校中の注目を集めた(と夢想していた)。
凧揚げの実習授業は楽しかったのか、またやろうと生徒たちからリクエストが出され、もう一度やることになった。2回目のときも私は余裕だった。どうせまた私が一番だろうと高を括っていた。私の真似をしてコピーをしてきた人もいた(と思い込んでいるだけかも)。

だが、2回目のとき、私は勝てなかったのである(別に順位付けがあったわけではないが)。
私のカイト(バチ物)も相変わらずよく揚がったのだが、それより大きな角度をもって揚がった凧があったのだ。T田Y子ちゃんの作った凧だった。それは、私のゲイラカイトのようなバチ物ではなく、オリジナルな形だった。ビニールで作ってあるところは、私のと一緒だったが、尻尾も付けてあって、基本的な構造としてはコンベンショナルな作りだった。透明なビニール風呂敷のボディがはるか上空に揚がり、色のついたビニール紐の尻尾がきらきらと太陽の光を受けてきらめいていた。

以後、私はゲイラカイトのコピーをするのをやめた。

2008年2月 7日 (木曜日)

承前

それは小学1年生のときのことだった。学校で算数セットが配られた。算数セットには、数字のカードとか、時計のおもちゃとか、三角や四角の形をした色とりどりのカードなどがあって、きれいに箱に詰められていた。配られた日、家へ持ち帰った私は、さっそく箱を開けてそれで遊んだ。特に色のついた図形のカードをいろいろに並べては悦に入った。

数週間後。学校で、次の算数の時間に算数セットを使うので持って来るように言われた。
家へ帰った私は呆然とした。遊んだあとちゃんと片付けないでいたままだったので、算数セットのアイテムはバラバラになって、一部がどこかへいってしまっており、ところどころ欠けていたのである。
私は泣いて母親に訴えた。
しかし、母には「そんなのちゃんと片付けとかないからでしょ、自分で何とかしなさい」と言われただけだった。

仕方なく私は、泣きながらボール紙を四角や三角に切り出して、色を塗った……

なにぶん数十年前のことなので、上の記述は多分に推量が混じっている。算数セットに数字カードははいっていなかったかも知れないし、ボール紙を切り出して色を塗り代用品を作ってくれたのは、実は母だったのかも知れない。
ただ、市販品、既製品をコピーするという行動の原点がここにあるのではないか、と思っている。

そして、この「真似して作る」という行動は、吹奏楽部時代に「譜面を書く」という面にも適用され、結局現在にまでつながっているのではないかと考えられる。

 〜 〜 〜 〜

昨日、「お子さんの小学校の就学説明会に来られませんでしたが、どうしました?」 と電話が来た。
「えっ!!  昨日あったんですか。知りませんでした」

あわてて本日学校に行って説明を聞いてきた。算数セットや防災頭巾の販売もされたので、買い求める。これだよ、これ。算数セット。「面倒ですけど、このアイテム1点1点に名前を書いてください」と言われる。こりゃたいへんだ。200回くらい名前を書けば終わるだろうか。
子供には、だらしのない親の30数年前の轍を踏まずに、ぜひとも算数セットをパーフェクトな状態のまま学校に持っていけるようにしてもらいたいものだ。子供は、親に似ず、遊んで拡げたものを寝る前には必ず片付けるし、大丈夫だとは思うけど。ただ、忘れっぽいところはあるかも知れない。

なお、どうして就学説明会をすっぽかしたかについては、奥さんの名誉のために、特に伏せておこう。

続く

2008年2月 6日 (水曜日)

子供が自作したDSは、さすがに画面のなかが動かないので、飽きたらしい。当たり前か。

自分が子供のころ、市販のおもちゃを真似して工作したものと言うと、すぐに思い出せるのは……

□人生ゲーム
あれ、どこに遊びに行ったんだろうなあ、クラスの大勢がある家へ遊びに行った。その家に人生ゲームがあった。何人かはやったことがあるみたいで、これで遊んでいた。しかし、初めて見た私は、気弱なこともあり、観戦に徹するのであった。
四角の車に棒を差し込み、結婚したり子供が生まれたりで棒が増えていったり、おもちゃながらリアルな印刷の紙幣のやりとりをしたりするのが新鮮だった。進む目の数を決めるのがルーレットというのも、そうである。
家に帰った私は、大きなボール紙を切り出して、これを真似して作ってみた(ような気がする)。そして、弟と遊んだ。
人生ゲームは、要するにすごろくだと気づいたのは、ずいぶん後になってからである。完全に道具立てに圧倒されていた。

□軍人将棋
私は普通の将棋は出来ない。将棋に限らず勝負事にはからっきし弱いため、ゲーム物をあまり知らない。
小学生のとき、ちょっとだけ塾のようなところに通っていたことがある。「のようなところ」というのが重要で、普通の教室に夜子供たちが集うようなところを想像してはいけない。普通の家の食卓のようなところで学んでいた。いや、学んではいないな。遊んでいたのだと思う。『釣りキチ三平』というマンガを教えてもらったのもここだった。
軍人将棋はその家で教わった。何度かそこへ行ったときゲームをした。これは面白いと思ったので、家へ帰った私は、ボール紙を切り出してコマを作り、紙に升目と軍人将棋独特の川と橋を描き込み、弟と遊んだ。

□ゲイラカイト
小学生のとき、ゲイラカイトが異様に流行ったことがある。普通の和凧に比べて、誰でも簡単に揚げられるのが受けた理由であろう。冬の日、グランドではみんなこれを挙げていた。
弟も買ってもらった。白い地に大きな目玉が描いてあった。貧乏性の私は、これを自作しようと思い立つ。自作と言ったって、コピーである。
黒いビニールのゴミ袋を切り出し、竹ひごで作った骨組みに貼り付けて作った私のゲイラカイト(バチ物)は、それはよく揚がった。
ちなみに弟のゲイラカイトは、グラウンドの横に建ってる体育館の屋根の上に墜落し、引っかかって取れなくなり、糸も切れて回収不能となって終わった。

市販のおもちゃをぜんぜん買ってもらえなかったわけではないが、貧乏性だったのだろう、いろいろと自作した。
おそらくその原点は、小学1年生のときのある経験に遡る。

続く

2008年1月 3日 (木曜日)


今まで上ったステージで最も印象的なものの一つは、ある養護学校で冬にブラスアンサンブルをやったときの「雪のステージ」である。

それは高校生のときであった。どのような経緯だったのか定かでないが、冬に地元の養護学校の催し物があって、そこでブラスアンサンブルの演奏をすることになった。もしかしたら、木管のアンサンブルなども一緒に行ったかも知れない。

庭にパイプ椅子が並べられ、その向かい側に雪でステージがしつらえてあった。考えるとかなりの量の雪である。今では確かめようがないが、高さは1mくらいあったし、広さは8重奏か10重奏かが座って乗れるくらいはあったと記憶している。北の方の豪雪地帯だったと思う。
何をやったか解らないが、何となくクラーケンはやった気がする。
雪がちらつくなか、雪のステージに上って我々はラッパを吹いたのであった(そう考えると、サックスならともかくクラリネットとかは厳しいか)。

ステージは養護学校の人たちの手作りだったらしい。なかなか素敵な舞台だった。

演奏のことだけ考えると、屋外、それも冬にというのは、悪条件極まるわけだが、若さは寒さをものともしなかったのだろう。

もう一度、このような雪の屋外でやるのも悪くないかも知れない。

2007年12月23日 (日曜日)

私の育った須坂市には、中学校が4つある。私立などもちろんないし、電車で2駅か3駅行けば附属中学があったのだけれど、そこへ行く人は周囲にはいなかった。全須坂市の中学生は、この4つの学校のどれかに通うのであった。
須坂市の面積は、約145k㎡。その半分以上が山岳地帯とは言え、菅平でホテルをやっている人の子供とかもいるわけで(多分)、この4つの中学でカバーするのであるから、1校当たり36k㎡。縦6km、横6kmの四角に相当する。四角の真ん中に中学があるとすると、遠い人のところからは3km。これは、私の通学時間の徒歩30分と相応する。私の家は、市の境界部、千曲川の川沿いの地区なのである。

一方、現在住んでいるところ(C葉市I区)の通学区の中学は、うちからだいたい2kmくらいの距離にある。
I区の面積は、21k㎡。中学校は7つあるらしい。私立はないが、C葉大があるのでその附属中学がある。
1校当たりカバーする面積は、3k㎡。1.7km×1.7kmくらい。すると、一番遠い人でも、学校までは1kmなくて然るべきである。しかし、上述の通り、通学区の中学はその倍以上も遠い。
実は、最寄りの中学校は別にあって、それは数百メートルの近さなのだが、国道を隔てた隣の区なのである。
そう思って地図をよくよく見てみると、附属や隣の区も含めれば、通学区の中学より近い中学は4つもあるのであった。

2007年12月22日 (土曜日)

中学校へは、歩いて30分くらいかかった。けっこう遠かった。

春から秋にかけては、自転車で通うことができた。ただし、自転車通学が認められるためには、条件があった。
(1)自宅が学校から2km以上あること。
(2)部活動をしていること。
今なら、条件(1)は十分納得できるものの、条件(2)には首を傾げるところだが、当時は素直な青少年だったので、何の疑問も抱かず、自転車通学をするためにも、部活を続けたものであった。

冬は雪が降り積もる地域であるので、自転車は一律禁止となり、片道3kmばかりの道のりをテクテク歩いたものだった。現在では信じられないが、氷点下の気温の降雪中も、特に外套など羽織らず、学生服のまま通ったような気がする。

私は融通の利かない、というか、小心者の生徒だったので、自転車禁止期間には歩いて中学へ行ったが、ヤミチャリをする者も少なからずいた。
もちろん学校の駐輪場まで乗っていったらすぐバレるので、学校のちょっと手前の物陰などに隠しておくのである。
1年後輩だったと思うが、私と同じ地区に住んでいて、よくヤミチャリで学校に来るヤツがいて、冬の日に帰宅する途中に会ったりすると、自分のヤミチャリに乗せてうちの近くまで運んでくれるのであった。彼は何故あんなに私に親切にしてくれたのであろう?
私は中学にはいったばかりの頃その地区に引っ越したため、特に幼なじみというわけでもなく、部活も違うヤツであった。私は運動系は苦手だが、彼はずいぶん運動神経が良いヤツで、タイプもぜんぜん違う。申し訳ないことに、今そいつの名前も思い出せずにいる。何で自転車に乗せてくれたかなあ? けっして私から「乗っけてってよ」と頼んだわけではないのに。

2007年10月 8日 (月曜日)

告別式。

記憶その3。
これは、もう少し下った時代のことである。多分、私は小学生。
祖父母のところに遊びに行った。祖母はコタツにはいっていて、祖父が出かけようとしているところだったと思う。
何か祖父母の間にいさかいがあり、茶碗が飛んだ。あらためて思い出してみたのだが、それが祖父が投げつけたものか、祖母が投げつけたものか、定かでない。が、推理するに、コタツにかけていた祖母が手元にあったお茶碗を思い余って投げつけたのではあるまいか。
そのいさかいがどのように収まったのか、子供のわれわれはまったく覚えていないのだが、よーく覚えていることがあって、それは、飛んだ茶碗がまったく無事だったということである。
その場に居合わせた子供たちの間では、それは不死身の茶碗と呼ばれた。そして、この事件は不死身の茶碗事件として、記憶に残っている。
なお、祖父母は仲睦ましかったと一般的には思われていると考えられるが、それは間違いではないと思う。やはり、上記のようないさかいは珍しいものだったのではあるまいか。

2007年10月 7日 (日曜日)

納棺。山の上の火葬場で、骨を拾う。

記憶その2。
祖母の名は、早世の大女優とまったく同じであった。
それは関係ないのだが、口許と頬にほくろがあった。
幼少の私(前述のとおり最初期の記憶なので、3歳ころの話だと思われる)は、祖母の膝に抱かれて、ほくろを押して遊ぶのであった。口許のほくろを押すと、右目をつむり、もう一方のほくろを押すと左目をつむり、という遊びであった。
子供が出来て分かったが、子供はこのような他愛もない遊びが好きである。
遊びと言えば、ミニカーなどで遊んでそのままにしておいても、翌朝になるときちんと格納されているのであった。「夜になったからみんな車庫に帰ったんだね」と言われていたが、どう考えても祖母が片つけてくれていたのだろう。

2007年10月 6日 (土曜日)

お通夜。

祖母は享年92。私は13人の孫のうちの5番目である。ちなみに、曾孫は今のところ11人を数える(合っているか?)。
何とも説明が難しいところがあるのだが、祖父母の家は入れ代わり立ち代わりいろいろな人が一緒に暮らした。私も生まれたときから3歳のころまで祖父母の家に暮らした。
そのため、私の最も初期の記憶というのは、正しいのかどうか定かでないが、そこにある。

そしてこれまた定かでないのだが、私はかなり祖母に面倒をみてもらったようである。
最初期の記憶に登場するのも祖母である。

記憶その1。
(おそらく、3歳くらいのころのことである)
私は、冷蔵庫の前に行き、天井を向いて口を開ける待っている。
すると、祖母は冷蔵庫から卵を一つ取り出し、私の口の上でぱかっと割って生卵を飲ませてくれるのである。

この記憶が本当のことだったか、今考えるとあまり自信がない。何故なら、今、生卵を1個丸ごと飲めるか、かなり怪しい。しかし、もしこの記憶が正しかった場合、卵を割って飲ませてくれたのは、母ではなく、祖母である、というのが私の記憶にある。

2007年9月19日 (水曜日)

'88年3月から'91年3月というと、今から16~19年前ということになるのか。

自分のためのメモ。読者不在。
○そんなにアップダウンがあるとは思っていなかったのだが、意外と感じた。体力が衰えたとしか思えない。特に、最後の一区画でけっこう急な坂があるのであった。ぜんぜん記憶になかった。世田谷代田の駅前の急坂は記憶にあるが。
○店舗の移り変わりは予想通り激しい。でも、駅からの道の最初のセブンイレブンはそのまま健在。その隣辺りのいかにもな一杯飲み屋も、もしかしてそのまま。
○税務署の横を通っていくのは覚えていたが、周りには会計事務所やら税理士事務所やらがいっぱいあったのだった。当時は関心がなかったので、そういう認識はなかった。
○税務署の奥の線路脇は墓地だった。初めて認識。
○ネギ畑があると思っていたところはアパートが建っていた。記憶違いか、はたまた? まあ、J磐線の快速も止まる駅から徒歩10分の土地なら、ネギを作るよりは賃貸収入にした方が、楽で安定しているのだろうから、止められないよね。
○コインランドリーをいつも利用していた竹の湯?はなくなり、駐車場になっていた。
○吉井町の角のタバコ屋(雑貨店?)は健在。
○吉井町と稲Oは似ている。こじんまりとして、周りは3桁の住所表示なのに、そこだけ2桁というところも似ている。
○吉井町Mの経営はどうなっているのだろうか。今は大手不動産会社がやっているらしい。

2007年8月22日 (水曜日)

ほんのわずかの間だが、本を読了したとき、その日付およびどの書店で購入したかをカバーの裏に記していた時期があった。
あわせて、簡単な感想などを記しているものもあったようだ。

そのような記述を発見。

今から22年前の、奇しくも本日の日付だった。

とても恥ずかしいが、そのまま写してみよう。

神田 三省堂本店
'85.8.22
この日、Uと共謀して、K.Kさんへ励しのletterを出そうとして、三省堂でletter setを買い、書くも、あえなく企画倒れ.
Uがくじけた.

たしか、言い出しっぺはUで、私は巻き込まれたような気がする。
しかも、ここで言っているUの正確な名前は忘れてしまった。鵜の付いた名前だと思ったが。
ウォークマン(当時)を聞きながら、寮の屋上でタクトを振り回す趣味をもったやつだった。
多分、長野県出身。

2007年7月27日 (金曜日)

私のアニメ史 其の4。

そろそろ私もアニメをあまり見なくなっていた。『ザブングル』とかいろいろあったが、最初あまり面白くなさそうだ、という第一印象のある作品ほど、実際には面白いのであった。
単に、サンライズの富野作品が面白いということなのかも知れないが。

ずっと後、社会人になってからも久しいころ、深夜何気なくTVを点けるとアニメーションをやっていた。何だかストーリーがぜんぜん分からない番組だったが、何か引き込まれて最後まで見てしまった。巨大ロボットが活躍する系、ではあった。
ある回など、戦闘シーンでひたすらベートーヴェンの第九の終楽章がBGMで鳴り続けていた。
これが噂のエヴァか・・・。『新世紀エヴァンゲリオン』の再放送であった。
驚愕と言われる最終回を見てはいないのだが、不条理アニメ、という感じだった。アニメも最近ではこうなったのか、という画期的なものであった。

2007年7月26日 (木曜日)

私のアニメ史 其の3。

『機動戦士ガンダム』に進もう。これはエポックメイキングであった。
その頃、うちは引っ越した。そして新しいTVを購入した。そして、電波状態が変わったせいか、はたまたTV機が新しくなったせいか、東京の方で放送している電波が微かながらはいって来たのである。ダイヤルを回してチューニングをすると、画面にザーザーとノイズが混じるものの、番組を見ることができるのであった。
土曜の夕方だったか、あるアニメ番組がノイズに混じってはいってきた。それが後から思えば『ガンダム』だった。これも後から思ったのだが、偶然にも第1話だった。アムロが横たわっている連邦軍のモビルスーツに乗り込んで動かしてしまうという感じ。メカの描写、アムロは最初それをなかなか巧く動かせないというようなところに、それまでのアニメにはないリアリティを感じた。何とも面白れえアニメだと思ったのである。
そう、後から思えばそれが『ガンダム』であった。ガンダムという番組名すら分からなかった。
電波状態は不安定で、うまく見られないときもある。そうこうしているうちに、私の地元局も放映するようになり、クラスで何人かがガンダム・フリークになっていった。最終回の前などは大変だった。

2007年7月25日 (水曜日)

私のアニメ史 其の2。

最初にものすごく面白いと思ったアニメは、『マジンガーZ』である。
今考えればごく単純な勧善懲悪合体物であるが、アニメならではのメカの描写が面白かった。
永井豪の真骨頂はおそらく『ハレンチ学園』にあるのだろうが、それを知るには少々幼かった。

次に自分にとってエポックメイキングだったのは、ご多分に漏れず、『宇宙戦艦ヤマト』である。私の地元で最初に放映されたのは、オリジナルより数年遅かったのだと思う。第一話を見た感想、それはとてつもなく暗いアニメだ、というものだった。しかし、小学校のクラスはいつしかヤマトブームになり、私も戦艦の絵を描いたりして喜んでいたのであった。宮川泰の主題歌はとってもカッコいい曲として認識された(イントロが)。

次の画期的作品は、『機動戦士ガンダム』なのであるが、その前に松本零士作品をひとつ挟んでおく。
ご多分に漏れず、『銀河鉄道999』である。予告が流されていたとき、ファンタジーライクなその話はあまり面白そうでなかった。私の地方での裏番組は、何か宇宙戦争をするような実写モノだった記憶がある。そちらの方が面白そうだと思った。しかし、何かこれまた『999』の第一話はとてつもなく暗い話だと感じたのだが、何か引き込まれつい見てしまったのであった。しかし、私にとって、アニメ的にエポックメイキングという位置づけではない。

2007年7月24日 (火曜日)

私のアニメ史 其の1。

小学生のころの日課は、朝5時とか6時に起きることから始まった。
なにしろ寝るのは8時だったので、朝は早かったのである。
そして当時私のいた地方では、朝6時からアニメ番組を放映していた。ただし再放送である。
この再放送ではいろいろなアニメをやっていたはずだが、同じ作品が何度も再放送されることもあった。私の記憶では定番は『アタックNo.1』であった。そのほか記憶にあるのを順不同であげていくと、『荒野の少年イサム』『赤胴鈴之助』『忍風カムイ外伝(たぶん)』『ちいさなバイキング ビッケ』『『いなかっぺ大将』など。『アルプスの少女ハイジ』『あらいぐまラスカル』などの名作シリーズもこの時間再放送されていた気がする。

この時間枠で何度も再放送されていたものに『海底少年マリン』という番組がある。
私は今までずっとこれは『海のトリトン』のバチモンかと思っていたのだが、もしかして逆なのかも。『海底少年マリン』はアニメ放映が1969年1月~8月。『海のトリトン』の原作マンガ連載が1969年9月~1971年12月、アニメ放映は1972年4月~9月ということらしい。
しかも『海底少年マリン』の主題歌は「ゴーゴーマリン」。

もっとも私はトリトンを観たことがないので、どんな話かも知らないのであった。

2007年6月29日 (金曜日)

メールをひとつ一昨日いただいて以降、斉藤由貴の『卒業』が頭のなかで鳴り続けて離れなくなってしまった。何年も耳にしていないはずなのだが。
しかし何でこんなによく憶えているのだろうかと考えるに、オリジナルの音源を持っていたからと思われる。EP盤。いわゆるドーナツ盤。どこに行ったんだろうか?
時代的には、すでにCDは販売されていたが、まだまだレコードが主流だった(ただし、この後数年で急速にCDへの移行が進む)。CDプレーヤーはまだうちにはなかった。

あまり意識したことはなかったのだけど、この人とは同学年だったのだな。

ほかにも何曲かリサーチしなければならなくなったのだけど、こればかりが頭のなかで鳴り続ける。ネットで探したら前述のリンク先の通り映像つき音源まであるではないか。思わず見てしまい、歳月を感じたのであった。ますます耳から離れなくなる。まずい。

2007年6月18日 (月曜日)

おっ、落ち着いてきたか? 

V3は見えなくなってきた。
私の住んでいた地域では、Xは放映されたのだが、アマゾンは放映されなかった。緑色のアマゾンの存在は、雑誌の中だけで知っていた。その後、ストロンガーはまた放映されたので、そのときにゲスト出演したときにブラウン管の中に観たのであった。
(ところで今調べて初めて認識したことが。Xの方がアマゾンより先だったのか。今の今まで完全に逆だと思っていた。1号→2号→V3→ライダーマン(弱っちい)→アマゾン→X→ストロンガーの順だと思っていたのだが・・・・違ったのか)

熱が出たりして抗生物質を多めに投入したりすると、腸内環境がメタメタになるようで、アマゾンライダー状態になるのであった。すなわち緑色化する。胆汁の色と思われる。
数週間絶食していたときも、このアマゾンライダーが日に何回も出てくるのである。
何で食べていないのに出てくるのだろう?と思ったものだ。

2007年3月 4日 (日曜日)

押入から小学生の時に作った木工工作の模型が出てきた。
材料は基本的にそこら辺にあった廃材。何だかんだで手頃な木の破片を拾ってくるのは当時そんなに苦労がなかったような気がする。今ならまっしぐらにホームセンターに行って散財か。
廃材のほかには、割箸とか爪楊枝など。塗料だけは模型屋で買った。
ノコギリ、ナイフ、彫刻刀などで形を削り出し、接着剤でつけた。
一応軍艦の図鑑を見て真似して作った。何と言う名の艦かは忘れた。

20070304_1_4   
左の方を先に作る。写真では判らないが、右の方が細工が丁寧。

20070304_2_1
右の艦の拡大図。丁寧と言ってもたいしたことはない。市販品には到底及ばない。

20070304_3_2   
左の方はモーターを埋め込み動くようにしたかったようだ。彫刻刀だけで、モーターと電池を容れるスペースをくり抜いたらしい。

当然こんな苦労をしなくても市販のプラモデルはあった。それを作ったこともある。しかし、多分当時は「現金」が非常に貴重で、500〜1000円の出費より木端を集めて工作する方が容易だったのだろう。

才能があって、そのまま続けていたらモデラーになれたか。

このように軍艦の模型に凝ったのは、もちろん宇宙戦艦ヤマトの影響である。

妻、先に独り帰千。途中都でダスビ。

こちらは正月行けなかった祖母のうちへチラと行く。子供庭で遊ぶ。昨日なされたというデッサンが壁に貼ってあった。

2007年3月 1日 (木曜日)

実家の押入れを引っかきまわしていると面白い物が続々と出てくる。
何でこんなの取ってあるのかと思う物も多い。

そのひとつにこんなのがあった。O文社の「中一時代」の案内版と思われる。すなわち今度中学入学を控えた小学6年生に向けて配送された、購読を勧誘する無料送付版である。ちゃんと奥付に年月があったので計算したところ、弟でなく私に宛てて送られたものらしい。ちなみに当時多くの人が「時代」もしくは「コース」を取っていたが、私はどちらも購読せず、結局このサンプル誌は功を奏しなかったのであった。
内容的には、中学生のノートの取り方とか、本誌で掲載されるマンガの予告だとかいろいろだが、中綴じが次の画像の通りである。著作権および肖像権、版権などに問題があったら申し訳ないが、サンプルということで許されたし。
20070301_1

名づけてアイドル・ブロマイド。
当時はアイドル全盛時代であった。
この中で今でもTVでよく見る方としては榊原郁恵さんおよびアグネス・チャンさんが挙げられるか。30年近く経っているのにすごいわ。伝説の百恵ちゃんもいるし、懐かしのカモメが飛んだ日もアイドルだったらしい。なお、聖子ちゃんはまだデビュー前である。

しかし、最も言いたかったのはそのことではない。
この中で1名、ちょっと違う格好をしている人がいるのが分かるだろうか。
上段左から2番目の方である。どうやら野球のユニフォームを着ている。
ジャイアンツ。背番号1。そう、現在ホークス監督の王貞治氏である。

当時、王氏はアイドルとして扱われていたのである。
上のブロマイドの中には秀樹五郎ひろみのその時代の御三家などが人気アイドルとして掲げられているわけだが、ほかのタレントも含めてみないわゆる芸能界の人である。ひとりプロ野球界から王氏だけがアイドルとして掲載されているのであった。
いやあ、何か興味深い。

しかし王氏も病から復活されているのだよなあ。見習わないとなあ。

2007年2月28日 (水曜日)

蜂に刺されたことが一度だけある。小学何年生だったろう、2年生か3年生だったろうか?

土曜日だった。家の方向が一緒のT君とM君と帰り道についていた。
途中にあった家のちょっと立派な門のようなところに蜂の巣があるのをT君が発見した。T君はM君と一緒になって、その蜂の巣めがけて石を投げ出した。臆病者の私は、「止めた方がいいんじゃない・・・・」と気弱に訴えていたかも知れない。しかしT君もM君もそんなの聞きやしない。
そのうち石が巣にまともに命中した。怒った蜂がわっと出てきた。T君とM君は逃げろ!と言って駆け出した。私も一緒に逃げ出した。しかし、逃げ遅れた。
一匹の蜂が私の顔に飛来し、頬を刺したのであった。痛かったと思うが、それより何で俺だけ刺されるのというショックが大きかった。T君とM君はまんまと逃げおおせていた。

家に帰って「蜂に刺された」と言うと、父が何か注射してくれたような気がする。
一緒に帰った3人の中では私の家が一番遠かったのだが、責任を感じたT君とM君が着いて来てくれたかも知れない。その辺はよく憶えていない。上の記述は、T君M君というのも含めて記憶違いというのがあるかも知れない。

けれども場所だけは間違いないと思う。本日体力造りのための散策をしていて、ぱっと上の出来事を思い出したのは、まさにその蜂の巣に石を投げた現場を通った時であった。

当時は意識していなかったのだが、そうかあ、酒蔵だったのね。最近S市では気を吐いている方なのではないかと思われる。まだ飲めるときに試した限りでは、必ずしも私の好みではなかったのだけど。

Endoushuzo

マークした門の軒下のようなところに蜂の巣がかかっていたのである。

しかし、土曜の昼下がりから小学生がこのような立派なお店目がけて投石しているわけである。子供っていたずら好きだわ。

2006年12月27日 (水曜日)

子供をお風呂に入れるとき、温まるため出る前に肩まではいって幾つと数える。
最近子供は「百数えるね」と言う。ただし、「百数えるのは疲れるからー」と言って、両手で指を折りながら、「1111111111、2222222222、」と唱え始め「10101010101010101010」と数えて100にするという技を使っている。10×10=100だ。確かにこれだとずいぶんと速い。

隣でこれを見ながら私は、小学生のころの漢字の書き取りの宿題で、例えば「生」という字だったら、まず「ノ」の部分を上のマスから下まで全部埋め、次に横棒3本×マスの数の分を同じく上から下までひたすら引きまくり、最後に縦棒をスッスッスッと入れていって、効率的に完成させるというインチキをしていたのを思い出した。

2006年12月25日 (月曜日)

クリスマス・プレゼントはピアニカ&本。

〜〜〜〜
TOKIOの電飾プレイかあ…
素晴らしい。発想が素晴らしい。
オリジナルのTOKIOの映像は、思い返すに鮮烈である。パラシュートは衣装の一部だったのであるよなあ。確か前から強風を吹かせなくてはならず、その場に固定されてしまうセット系衣装だったのではなかったか。
よく分からないが、紅白の小林幸子よりも先を行っていたのか?

2006年12月13日 (水曜日)

自転車コンテストのもうひとつの競技は、普通の町中を模したコースに4つだかのチェックポイントが設けられ、交通法規を守りながら自転車を走らせこれを順に回るというものだった。

自転車は軽車両なので、厳密に左側通行せねばならず、そのためのコース取りを考えることが必要になる。そして、信号の遵守はもちろん、踏切や一時停止場所での一時停止を守らねばならない。
この辺がすでに現実の街中でみかける自転車の実態とかけ離れているのだが、もっともバーチャルだなと感じるのは、必ず合図をして走行をしなければならないことである。

ご存じか?

自転車は軽ながら車両である。道路交通法上、合図をしなければならない。

発進時は右手を横に真直ぐ伸ばす。加えて後方目視。
右折時は右手を真直ぐ伸ばす。左折時は右手を直角に折る。
停止時は右手を斜め下に伸ばす。

こうして周囲に意思表示をしながら自転車を走らすんである。

5年生のときどうだったかよく覚えてないが、県大会までは行ったはずだ。大会会場の隣でラジコンの競技会が開かれていてすげえと眺めていたのを憶えている。肝心の結果は忘れた。

6年生のとき、私にとっての政治的状況は改善されていたが、当然のことながらまた自転車大会の選手になったのであった。
なお、競技は学科も合わせて各100点の300点満点だった。個人では、私は地区大会では何か表彰された気がするが、県大会ではダメだった。同級生の女の子が300点だか299点で表彰された。
とは言え、団体では別の学校が勝ち、私の自転車競技人生はここで終わりを告げたのであった。

大会のセレモニーの一環で警察の音楽隊の演奏があり、バルコニーの上から私は、一番大きくてピカピカしている楽器、すなわちテューバをずっと眺めていた。それがどんな音を出しどんなパートを担当しているのも知らないまま。

2006年12月12日 (火曜日)

「自転車コンテスト」なるものが小学生のときにあった。
(たぶんこれ

各学校から代表者が出て、実技と学科を競い合う。全国大会まであるようだが、私の小学校は地区大会は突破したものの県大会止まりであった。
実技は、曲乗りのようなものと与えられたコースを法規に則って走るものの2種類があり、あと筆記の学科試験があった。

クラスから出場者が選ばれて、朝と放課後に練習をするということだった。
5年生のとき私が選ばれた。決して運動神経が良くはない私が選ばれたのには、政治的な背景(別の言葉で言えばいじめ問題だな)があって一言では説明し切れないのだが、ともかく当初は望みもしない私が選ばれ、泣く泣く朝夕練習することになったのだった。

体育館にビニールテープでコースが描かれ、曲乗りの練習から始まった。

現在はかなり違うようだが、当時のメニューは次の通りであった。
(1)狭路(30cm幅くらい?)直進→右ヘアピンカーブ(片手合図しながら)
(2)ジグザグ走行(ボーリングのピンの間を蛇行運転する)
(3)遅乗り(30cm幅×10mくらいの直線の狭路を20秒だか30秒だかかけて走行する)
(4)八の字路の走行
(5)隘路のジグザグ走行(ペダルの端から端の長さよりわずかに広く置かれた2つの箱が何組かジグザグに置かれた間を走行する)
(6)狭路左ヘアピンカーブ(片手合図しながら)→直進(*(1)の路を逆に走る)

文字ではよく分からなくて申し訳ないが、ともかくこれら一連の課題を足をつかずにこなすのである。

選手団の主体は6年生なのだが、5年生を1人入れることになっていたようで、私は上級生に混じりながら、嫌だなあと思いつつも練習に参加することになった。

しかしやってみると案外面白いもので、何よりあまり馴染みのなかった上級生に仲良くしてもらい、いつの間にか一生懸命練習するようになった。
自転車の腕も上がっていった。コースを正確にトレースすることも容易くなったし、遅乗りの練習を積み重ねていると足をつかずにその場で止まっていることも出来るようになった。(ちなみに、本競技では止まってしまうのは減点対象だったので、止まらずにすむようにコントロールすることが求められた)

学科は運転免許試験の問題のようなものである。
「将来、免許を取るとき役に立つぞ」と言われた。そのときは、そんな先のことと思ったが、今思えば役に立ったのは間違いない。
自分が運転免許試験を受けるとき、自動車学校の授業時間に話を聞く以外に勉強をしたことはない。本当の試験のときも、ある日思い立って下見のつもりで府中を目指し、時間が間に合ったので受けたら受かったという感じだったし。

それはともかく、小学生が教科書を見て標識の種類とか覚えていったものである。当時身の回りには高速道路など通っておらず、「最低速度」という標識には何か遠くの世界を感じた。また、本当の運転免許のときもそうだったが、路面電車という文化も身近にないので、この辺りは苦労をした。

to be continued.

2006年11月25日 (土曜日)

保育園の大掃除。奥さんと子供が行く。

ところで最近気づいたのだが、NHKラジオ講座のテキストの印刷は、もちろん大手のD社などの名がはいっているが、それと並んでこちらがやっているようだ。
しかし、こちらは会社関係で知ったところというわけではない(弊社のシェアの低さの現れか?)。
こちらはT大オケがポスターやチラシやチケットやプログラムの印刷を頼んでいたところなのである。今はどうだか知らないが、私の頃はそうであった。私は印刷の担当をしており、こちらには打ち合わせなどのため、何度か足を運んだ。電車では行きにくく(遠回りになる)、結局歩いていくのが一番早いのだが、歩くと結構遠いのであった。自転車があったらそれが一番楽だったろう。そこからの帰りに財布をなくしたこともある。今思い出した。悔しい。

2006年11月17日 (金曜日)

NHKでこういうのをやっていた。中信地区のある高校からの中継を交えていた。

-----以下区切り線までマルC=NHK----
長野県では6割近い学校が生徒の個性を大切にする狙いから制服を廃止してきた。しかし最近仲間と一緒におしゃれができるからとなんちゃって制服を着る生徒が急増、私服を着る生徒が少数派になる学校が出てきた。制服か、私服か、なんちゃって制服か、学校を舞台に盛り上がる論争を通してそもそも高校生の個性とは何かを考える。
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東京都の公立高校で私服なのは1割だが、長野県は6割が私服なのだそうだ。
私のいた高校も私服である。
私が高校生のときには既に当たり前のように私服になっていたが、その頃に聞き及んだ話では、安田講堂事件に象徴される大学の学園紛争が華やかなりし頃、それが高校にも飛び火し、そのときに生徒達が制服廃止を勝ち取ったということであった。
私の認識では、行政側が「生徒の個性を大切にする狙いから」廃止したわけではない。時代の波とその時の取り引きとして制服の廃止がなされ(もちろんその際に「生徒の個性を大切にする」というお題目は唱えられただろう)、それが慣習化したということなのだと思う。

今はかなり様相が変わったようだが、もともと男子高だったこともあり、私が高校生の時分も男子の方が女子の倍くらいいた。
で、前にも書いたかも知れないが、ある日、「明日はガクランの日にしようぜ」とクラスのやつが言い出した。
それは面白いということで、次の日みんなでガクランを着て学校に行った。
この行動は、なんちゃって制服、というわけではあるまい。
普段ならみなバラバラの私服(と言っても、同じようなもんだが)なのに、ある日突然教室にいったらみんなガクランで教師がびっくりする、という悪戯心が大きかったように思う。

ちなみに、女子がセーラー服を着て来るということはなかった。その時代その地域では、女子学生の制服というとセーラー服しか思い浮かばなかった。ブレザー風の制服は身近になかったと思う。時代はまさに『セーラー服を脱がさないで』なのだった。

って言うか、なんちゃって制服も私服の一種だろ>NHK。

2006年10月21日 (土曜日)

実家へ行きがてらこれこれを見てみたかったのだが、この体調では無理である。

某高校の先輩がゲスト出演するというからだけではない。
実は、この方々は私にとってのブラスアンサンブルの原点的存在であるのだ。ディスク(LP)や放送(FM)ではいくつかあったわけだが、ブラスアンサンブルの生音で圧倒されたというのは、この方々が私にとって最初であった。そう、某SVBEより早いのであった。

HPを見て改めて知ったが、第1回演奏会をやった時には、既に私は東京に出て来ていたようだ。しかし、その以前、彼らの演奏はいろいろなところで耳にしていた。第1回の演奏会を開く前にも、随所で活躍していたのである。1980年代前半のこと。
探せば出てくると思うのだが、私の手許には彼らの録音もある。
生ピッコロトランペットを初めて見聞したのも彼らの演奏によると思った。たしかK井先生(高校の教諭なのである)。

地元ブラスアンサンブル小僧の憧れの団体、それがアンサンブル・シュムックであった。

2006年9月 7日 (木曜日)

大学生になったときに、従兄からお古のテレビをもらった。20年前とは言え、当時既にリモコンが普通だった時代に、ダイヤル式でガチャガチャやる代物だった。まさに、「チャンネルを回す」ものだった。
それはともかく、既に半分壊れかけており、カラーTVと称しつつ、画面に映し出されるのはセピア色の世界であった。

けっこう自堕落な生活をしていたので、時間を問わずテレビを見ていたが、よく覚えているのは芸のネタ探しとして観た『冗談画報』、マイケル・J・フォックスの『ファミリータイズ』(DVDはないのか?)などである。これら2作品は当時流行の先端をいっていたものであり、友人(AB氏など)と話をするに躊躇はなかったが、このほかに秘かに愛好していたものがあった。

それは、深夜1時とか2時とかに再放送されていた青春物シリーズである。

『飛び出せ!青春』では、主人公教師役の村野武範が真面目に演技しているのが笑えるが、若き日の酒井和歌子がヒロイン教師役で光っていた。なにより、主題歌があの青い三角定規の『太陽がくれた季節』である。今から20年前の当時ですら、すでにギャグとして捉えられる向きもあったが、オリジナルを初めて目にした私には、けっこう新鮮だった。

しかし、なによりハマったのは「これが青春だ」である。
主演は竜雷太。ゴリさんとして超絶スナイパーの腕を振るう以前は、熱血教師だったのである。
元々の放映は、昭和41年~42年にかけてとのことで、初めて再放送に接する私は、ちょうど自分の生まれた頃の時代のドラマを目にして、いろいろと感慨に耽ったのだった。
20年前の映像のなかの日本は、けっこう貧乏たらしかった。着ている服も質素であり、なによりドラマのなかで生徒と熱血教師はサッカー部を立ち上げるのだが、そこで使うボールは何故かバレーボールなのである。
そして映像はまだ白黒だった。
この白黒が、私の「セピアカラー」のテレビとよくマッチした。完全にレトロ感覚で観ている気分をますます盛り上げてくれるのであった。
ハマッたのは、生徒役の2人のヒロインである。岡田可愛と松本めぐみ。特に松本めぐみのキュートさにはかなり参っていた。ドラマのなかではその頃の自分と同じくらいの歳なのだが、ドラマ自体は20年前のものである。そういう時間がフィルムのなかに閉じこめられている美に感動した。
今回調べてみて初めて知ったのだが、松本めぐみって、加山雄三の奥さんなのね。
そして、T木くんがよく使っていたフレーズ、「れっつらゴー」の出典もこの番組らしい。

時は流れて、それからまた20年経ってしまったわけである。
80年代中旬を代表するドラマが何か分からないが、当時リアルでやっていたのを今の学生さんが観ると、私が「これは青春だ」を観ていたのと同じくらいのレトロ感を覚えるのかと思うと、何だか・・・・。

2006年8月29日 (火曜日)

たしかに馬刺は子供が食べるようなものではないかも知れない。
ただし、私が小さい頃、うちに祖父が遊びに来るときは馬刺が出ることが多かった。祖父は馬肉が大好物だったのである。
祖父は隣りの市(有り体に言えば長野市ですな)に住んでいたのだが、何故か私の住んでいる市に旨い馬肉を売っている肉屋があり、これを所望するのであった。そして子供たちはおこぼれにあずかるというわけである。

不味いものではなかったが、子供の味覚には、牛肉や豚カツの方が旨く感じるのが正直なところであろう。でも、嫌いではなかったし、生で食べることにも抵抗はなかった。

このように、一応長野県人として馬肉の味には幼少の頃から馴染んでいた。

東京に出てきて、学生時代にはあまり食べた記憶はない。

再び馬肉に出逢ったのは、青森県に在住している間である。青森では八戸に暮らしたのだが、そこから山の方へはいっていったところに五戸という集落がある。ここが馬肉の産地であった。有名な肉屋が2軒あった。珍味という風情もあったが、相当に旨いものである。馬刺に始まり、桜鍋を旨く食わせるのであった。私が青森に行った頃は、この五戸の地まで行かないと馬肉は食べられなかったが、そのうち1軒が八戸にも出店した。
私にとって馬肉は未知の味でもなかったが、東京や関西の出身者には初めてという人も多かったように思う。私も、長野の地元では馬刺は生姜醤油で食べていたのに、青森では酢味噌を出されて「あっ、違う」と思った記憶がある。

さて、馬肉を何と一緒に食すかということだが、よく憶えていないが祖父は日本酒とやっていたのではなかろうか。あるいは、ウイスキーか何かだったかも知れぬ。
青森でも、日本酒だったような気がする。ビールも飲んだけど。五戸には菊駒という銘酒がある。五戸は馬の産地なのであろう。

UCでは低脂肪が推奨されるので、この前実家に行ったときに馬肉を買っておいてと頼んだが、果たしてその馬肉はあまり美味しくなかった。産地がどこかは知らぬが、輸入するようになったのかも。

東京には、森下という、一部音楽関係者には練習場所として有名な地名のところに、みの家という、これまた有名な馬肉屋さんがある。まったくもって池波正太郎の世界である。

熊本に行ったときは、お約束だし、馬刺をオーダーし食べた。あの頃は元気だったなあ。美味しかった。

2006年8月 7日 (月曜日)

反応系その2。

いわゆる「ズザート組曲」から「モリス・ダンス」と「バス・ダンス」と言えば、私が高校生のときのアンサンブル・コンテストで思い出すものがある。
今言われてみると、確かに似たような曲の組み合わせで、組曲の中からわざわざこの2曲を取り上げる意味が不明瞭かも知れないが、時間的な問題だろうか、聴き映えを狙ったものだろうか、私は当たり前のようにズザートというとこの2曲と捉えていた。それには訳がある。当時、東海地区で全国へ行く強豪の一つにA工大M電高校があって、ここもこの2曲の組み合わせでやっており、我々の目の前で全国への切符を手にしたことが強烈に印象に記されたからあった。ちなみにかの高校は野球も強く、現巨人の工藤投手やシアトル・マリナーズのイチロー選手などの出身校でもある。
M電高校は、十重奏版を八重奏に改めたアンコン仕様でやっていた。ラッパの1番はロータリーの楽器で吹いていて、山奥の田舎者で横ラッパなど見たこともない我々は「おおおおぅ」と思ったものである。結果の差を楽器の差に帰して納得したという説もある。若い、若すぎる!!
確か違う年のアンコンだか吹奏楽コンクールだかで、練習のためM電高校を訪ねたことがあり、感動した憶えがある。しかしまぁ、感動してどうする。若い、若すぎる!!
そのような若い思い出のある「ズザート組曲」だが、後年、ピストンでW氏の譜面により、かなりそれまでのブラスアンサンブルの慣習とは異なったズザート舞曲集の演奏に参加させてもらえたのは面白かった。W氏は「慣習」に強い疑問を抱いており、我々はそのような惰性を打破するべく研究を重ねたのであった(本当か?)。一種のピリオド狙いと言えよう。NABEOでは猪苗代で演奏した。
私の中では、M電高校の演奏するズザートと、本来の、つまり金管楽器で演奏するわけではないズザートの舞曲とは、何かもう違う曲として存在している。実は、どちらも嫌いではない。 

2006年7月20日 (木曜日)

自分に縁のある文字列はパッと目にはいるものだ。そして、本当は違うのにちょっと似ているため自分に縁のあるものと早合点してしまうこともある。

高校のとき、アンサンブルコンテストの東海大会に出られることになった。その年の東海大会は、三重県の鈴鹿市で行われた。初めて行く地であったが、当時すでに鈴鹿サーキットで有名だった。泊まったのは近くのサイクルセンターとかいう施設だったと思うが、サーキットからエンジン音が聞こえて来るようなところで、なかなかの雰囲気だった。

東海大会の結果は、銀でそこで終わりというものだったが、部活の一部メンバーで修学旅行をしているようなものであり、結果いかんに関わらず楽しく旅行をしたものである。

そして、帰り際目に飛び込んできた看板。たぶんパチンコ屋だったと思うのだが。

SUZUKA PACHINKO

このSUZUKAの文字、私は一瞬“SUZAKA”と読んでしまったのだ。

何故なら、私が住んでいたのは長野県須坂市というところであり、そもそも須坂高校のアンサンブルとして東海大会に行っていたのだから。

漢字で並べると、「須坂」と「鈴鹿」はぜんぜん違うのだが、ローマ字にするとAとUの違いしかなく大変に似ているのだった。

自分の演奏のことは何も覚えていないが、このことだけは何故か妙に記憶に残っていて、鈴鹿というとF1より何より、このローマ字の綴りのことが頭に浮かぶのである。

2006年5月31日 (水曜日)

散歩は自分のペースで自由気ままに歩くところがいいと思うのだが....

犬を連れて散歩している人は、犬にペースを乱されて嫌ではないのだろうか?
あれは犬の散歩についていっているわけだから、主体が逆なので関係ないのか。
そもそも、Je n'aime pas les chiens. だから、どうでもいいんだけど。
でも、大きな犬を連れた人が前から来たりすると、思わずびびって、道の反対側に渡ったりする。細い道だと引き返したくなる。

犬が苦手なのは、幼児体験に依っていると思われる。

隣の家に、ロクという犬がいた。前の晩にスペアリブを食べたりすると、翌朝あまった骨をあげたりしていた。
ところが、この犬は年寄りで、あるとき死んでしまった。
このロクの代わりに隣の家が新しく飼ったのがジーベンという犬だった。ドーベルマンだったのではなかろうか。まだ子犬だったので、キャンキャンとよく動き回る犬であった。
そしてある日、私はこのシーベンに自分の家の中を追いかけ回されたのであった。

嗚呼、恐ろしい。

今から思えば、ジーベンは遊んでいただけのつもりだったのだろうが、子犬とはいえドーベルマン、その運動能力は洒落にならないのであった。

嗚呼、恐ろしかった。

以来、私は犬が苦手になったように思われる。

ちなみに、ジーベンの綴りは、Sieben。独語で7の意味。ロクの次だから。

2006年5月 5日 (金曜日)

熱が下がってちょっと様子が良くなる。しかしこの一週間何の活動もしていない。子供の面倒も見ていない。いかんのう。

近所のコンビニが2軒、廃業をする。どちらも流行っていないことはなかったと思うのだが。恐らくもともとは酒屋さんだった系で、オーナーの人がちゃんとやっていたという感じだった。1軒の方は、店員さんの教育も行き届いている感じで良い印象だったので、ちょっと残念な気がする。

私にとってコンビニの記憶と言えば、小学校3年だか6年だか忘れたが、その時に遡る。
小学校の同級生の○山○子ちゃんのうちが、市で最初のコンビニエンスストアを開業したのであった。7/11だった。今から、何と30年くらい前の話になるのか。恐ろしい。
ともかく、その当時、その店はその名の通り、朝の7時に開いて、夜は11時に閉まっていた。しかしそれであっても、「そんなに朝早く誰が買いに来るのか?」「そんな夜までやっていたって客が来ないだろうに」という受け止められ方をしていたと思われる。お店が開くのは10時、閉まるのは6時とか7時とか。ほかのお店がすべてそうであったから、1軒だけやっていたってどうするの?という時代であった。旧き良き日本の田舎であったと言えよう。
その後、コンビニ文化は当たり前のように浸透してきた。くだんの○山○子ちゃんのうちの7/11は、私が高校生になった頃には、うちの高校には欠かせない存在となっていた。
そして最近まで、コンビニというのは増える一方だった気がする。

それがいよいよ飽和状態になってきたということなのだろう。ふむ。