私は長野市で生まれた。生家は祖父母の家(当時)で、最寄りの駅は善光寺下という所である。
その名の通り、善光寺の下の方にある。
善光寺は、長野駅からすると斜めに延びる長い門前町を緩やかに上がった先にある。立派な山門を潜った先に本堂が鎮座まします。京都あたりの寺と違って、拝観料はないので、境内には出入り自由である。
善光寺の横から、いささか急な坂道になっている方を降りると、そこが善光寺下駅(長野電鉄線)である。
だから、生家から善光寺に行くのは、ちょっと裏山に登るという感じだった。
来週、その善光寺から聖火リレーがされる予定だった。
世界各地でチベット問題に関して中国政府に対する抗議の目的から聖火リレーが妨害されたりしたため、長野でもコースの見直しなどが迫られているようだ。
しかし、聖火リレーの妨害や厳重な警戒の様子の報道を見ていると、思い起こす言葉がある。
荒らしは放置。
当局が厳重な警戒体制を敷いたり、コース変更や時間を非公開にしたりという対応を取れば取るほど、抗議側(本来のチベット政策に対する抗議を主意にしている人の割合がどれほどかということは措いておく)は行動を激しくしていくのは、ある意味当たり前である。そしてそれが世界各地で報道されるとなれば、嫌がおうでもエスカレートするだろう。
妨害されたら、そこで終わればいいじゃん。
そうすれば、妨害側が悪者になるだろう。
「○○国××市での聖火リレーは、妨害にあって途中で消えてしまったので、中止となりました」
で、当局はしらっとした対応をしていたのなら、そんなにヒートアップせずにいたと思う。報道だって、絵にならなければそうそう流さない。
抗議する方は上手い時期に上手いところに目をつけたものである。
来年になっていたら、こんなに報道されることはなかっただろう。
オリンピックはスポーツの祭典というのは嘘っぱちで、政治的プロパガンダを繰り広げる場なのである。
その証拠に、国別対抗戦になっている。チーム競技など、わざわざ国別に組み合わせることもないと思うのだが、それを疑う人はあまりいない。「がんばれ日本」と応援し、日本人選手がメダルを取ると喜ぶ人たちは、オリンピックを政治の場としている。別にそれを否定するものでもないし、私自身もそういう「愛国心」がないわけではない。
以前よりもオリンピックの政治化は進んでいるようで、チベット問題に関して、各国首脳が開会式に出席する/しないが取りざたされているようだが、選手の参加をボイコットするというところは今のところないようだ。
オリンピックをボイコットという話になると、「それを目標にやってきた選手がかわいそう」という意見が必ず出されるが、前述したようにオリンピックは政治の場なので、そういう可能性は必ずある。そして「日の丸を背負っているので負けられません」などとコメントする選手がいたとしたら、その人はボイコットという事態になったとしても甘んじるべきである。何故なら、自らオリンピックを政治化していると言えるのだから(ただ、ボイコットする目的、ボイコットという手段が効果的かどうかについて批判することはできよう)。
しかし、昨今はオリンピックをボイコットすると決めたら、その方が国内での世論の反動が大きくなるという判断であろう、今回も選手団をボイコットすると言う人はいないようだ。
オリンピックでも、開会式は特に政治的色彩が強い。サルコジさんがいなかろうが、ブッシュさんがいなかろうが、競技には何の関係もないが、それが重用視されるのは政治的意味合いが極めて大きいからである。
そもそも、開会式は選手が国別に入場することからして政治的である。
人類がその限界を競い合うというのならば、各競技別に入場すればいいのに。
そうすれば世界の人たちは、それぞれの分野でのトップの人たちを見て、気力を高めることができる。
「最初に陸上、短距離走の人たちです。世界で一番速く走るのはこの人たちです」
「次も陸上、高飛びの選手団です。世界で最も高く飛ぶのはこの人たちです」
「重量挙げ。最もマッチョな人たち」
…
その後のスケジュールも同じ人たちだから、効率もいいのではなかろうか。
でもそうはならずに、国別に入場し、その映像が世界各国で視聴されるのは、オリンピックが政治的プロパガンダの場であるからだと思う。
東京にまたオリンピックを招致しようと音頭を取っているのは、ほら政治家ではないか。
話は戻って長野での聖火リレーだが、入学早々子供の学校の運動会なので、見に行けない(運動会でなくても別に見に行かないけど)。