法律の裏側

2009年11月 4日 (水曜日)

会社法界隈で最近の流行は、反対株主の買取請求権の問題であるらしい。
M&A等の場面において、それに反対する株主は会社に株式を買い取るよう請求する権利があると法律で定められているが、問題になるのは、言ってしまえばただ一点、「いくらで買うか」である。

当然のことながら、株主は少しでも高く買ってもらいたいし、会社は少しでも安く買いたいわけで、利害の相反がここにある。商法から会社法に変わり、この部分における定めも変わったこともあり、今流行りの問題であるようだ。

でも実際の場面でそれは、シナジー効果をどう評価するかになってくると思われる。

で、昔ちょっと合併しかけたことがある会社にいるささやかな経験で考えると、そういうM&Aの場面では、往々にして「シナジー効果」というプラスの面にしか目が行かなくなるような気がしている。

M&Aによるメリットばかりが強調され、そしてそれはスケールメリットだとか管理部門の統合だとか幅広い品揃えの実現だとか、どちらかというと計算しやすいものであり、だから(そのM&Aを進める当事者は)シナジー面しか見えなくなってくるのではなかろうか。

でも、一歩引いて考えると、果たしてシナジー効果ばかりなのだろうかという疑念が湧いてくるのである。

ここで喩えを思い切り卑近にして、NABEO界隈でM&Aが行われたとしてみる。

なお、以下で団体名として表すアルファベット表記は、ランダムに生成したものであり、特定の団体を想定したものではないことをあらかじめお断りしておく。

具体例として、PCとSWが合併することになったという場合を挙げる。

[シナジー効果]
・合併によるスケールメリットから、より大きな音が出せるようになる。
・音域の幅が格段に拡がる。
・互いにない楽器を補うことによる演奏曲目の拡大。特にガブリエリなど。
・事務手続きの統合による運営業務の効率化。
・固定費負担の削減(集約による練習場代やホール代の節減)

新聞を賑わすM&Aで、フィナンシャル・アドバイザーやコンサルタントが入って作るプランでも、けっこうこんな(単純な)感じでシナジー効果だと言っていることが多いような気がする。東京と熊本を往復する交通費などは誤差のうちとなる(^^)。

しかし、PCとSWが合わさってやるガブリエリって、面白いと思うだろうか。
ガブリエリでなくたって、合わさってやる音楽が、一発芸としてなら興味津々だが、恒常的に今以上の面白さを提供していくことができるのだろうか。
事務手続きの苦手なPCの事務を、SWの番頭さんが一手に仕切ってくれたとして、それを「業務の効率化」と称えていいのだろうか。

つまり、合併することによって失われてしまうものはないのか、ということである。

直感的に思うのだが、たぶん失われてしまうものはある。
理論的には、それ以上にシナジー効果が評価されるのでM&Aが遂行されるわけだが、その結果として失われるもっとも大きいことは、不完全さやアンバランスに依拠している「面白さ」なのではなかろうか。
そして、実はその「面白さ」こそがレゾンデートルだったりしないのだろうか。

ところでM&Aは往々にして事業の整理を伴い、不要な部門は切り捨てられることもある。
PCとSWの合併の場合にも、そのような部門はあるわけで、それがN口という人間であることは想像に難くはあるまい。

繰り返しになるが、以上のシミュレーションにおいてイニシャルで示した団体名はあくまでランダムの架空のものである。

2009年10月27日 (火曜日)

個人情報保護法の対象となる「個人」は、うろ覚えの知識では「生存する個人」とされているはずだから、殺人事件の被害者に関する情報に関しては、この個人情報保護法については考えなくてよいのだろうな。

…と、警察からの情報提供の要請があったのを横で見ていて思った。

2009年10月 9日 (金曜日)

「ほかに属せざる事項」は総務の仕事である。たぶん普通の会社ではそうなっている。

何ヶ月も前の新聞になるが、童門冬二氏が新聞に「新しい総務」という題で書いていて、そこで「ほう、そうか、なるほどなあ」と思ったことがある。

童門氏のコラムの大意はこうであった。

かつての総務は権威セクションで、そこにいる社員は肩で風を切って歩いた。総務には「ほかに属せざる事項」という仕事があり、このなかに裏金作り、総会屋対策なども含まれていた。けれども商法改正により、不透明な業務はなくなり、業務も情報管理や苦情処理が中心となり、意識改革を迫られ、昔いい思いをした人のなかには受難の気分を味わった者もいる。これからの総務は、社の経営理念と目的を周知徹底し、社の全体業務の進行管理をするのが任務である。単なる権威主義ではなく全社的に「信頼される」総務としてそれを担わなければならない。

私が「ほう、そうか、なるほどなあ」と思ったのは、結論の部分ではなく(別に結論に反対なわけではない)、「かつての総務は肩で風を切って歩いており、総務の仕事の『ほかに属せざる事項』には裏金作り、総会屋対策なども含まれていた」というくだりである。

ふーん、昔は肩で風を切って歩いてたのか、今じゃそんなのあり得ないなあ、というのがひとつ。
そして、その権威の源泉は総会屋対策のために裏金を扱うという治外法権的な役割を事実上公然と認められていたことにあり、また経済的なおこぼれにも与りやすかったのだろうと思ったことが、もうひとつである。

総務の業務分担にはたしかに「ほかに属せざる事項」というのがあって、ほかにどこもやるところがないのだけど、やらな仕方ないわな、という仕事は総務に回ってくるのである。「ほかにどこもやるところがない」は「ほかに誰もやる人がいない」に容易に変容し、なんだか分からないけど総務がやるという状況もいろいろと見たり経験してきた。そうして、私としては、ずっと「つまりは何でも屋だな」というように捉えていたのだが、歴史的文脈は少々違ったのかも知れないと思ったのが「ほう、そうか、なるほどなあ」なのである。

つまり、総会屋対策として裏金を用意するのが当たり前だった時代には、「ほかに属せざる事項」は実質的には裏金管理(を中心としたダークな領域の仕事)を指していたのではなかろうか、と推測したのである。

私が会社にはいったのは昭和56年改正のずっとあとの話であるから、「ほかに属せざる事項」といえば文字通り素直にバスケット条項として捉えていたのだが、うえに述べたようなバイアスがあった可能性に気づくと、そういえばある年代からうえの人たちは、「ほかに属せざる事項」という言葉を聞くと、ニヤリと隠微な笑いを口元に浮かべていたような気がしてくるのであった(考えすぎ)。

2009年9月28日 (月曜日)

練習施設の壁に次のような貼り紙があった。

このキーボードは新品なので大切に扱ってください。

区の施設の音楽練習ができるところで、その部屋にはピアノやドラムセットやアンプなどの機材も置いてあるのだが、そのなかのキーボードの置かれた後ろの壁に貼り紙はあった。

墨○区は新しい備品としてキーボードを買ってくれたらしい。パチパチ。

ところで、この貼り紙の文言、気持ちは分かるが理論的におかしいのではあるまいか。

今述べたようにこの部屋には新品のキーボードだけでなく、いろいろな機材が置かれている。
ことさらこのキーボードだけを大切に扱わなければならないわけではないだろう。
公共機関としては、(たぶん)区民の税金でまかなわれているこれらの財産は、等しく大切に扱うように利用者に注意を喚起するべきではあるまいか。
モラリスト(嘘)の私はそう思ったのである。

新品だから大事にする、って、子供の理屈かよ、と、まあこんな感覚である。

だが一方で新品だから大事にしてよ、という気持ちは大変によく分かるものである。
自分のことを考えても、最近ではほとんど洗わない車も、買った当時は洗車場に通ったものだし。
もっと遡ると、初めて自分で買った(買ってもらった)トロンボーンを凹ませてしまったときには、本当に凹んだものだし。

たしかに、その貼り紙があるからといって、昔からあるドラムセットをぞんざいに扱っていいことを意味するわけではないが、行政としてはその施設にあるものはすべて「区民のみなさんの大切な財産」なのだから、「みなさん大切に扱いましょう」とするのが筋だと私は考えるのである。

理論的におかしいと始めに書いたが、経済学チックに考えれば理屈が立たないことはないようだ。

減価償却のような考え方が区の施設に取り入れられているのかは知らないのだが、仮にそうだとすれば次のように考えられる。
ずっと昔に買ったドラムセットなどは、償却がほとんど終わっていて、乱暴に扱って壊してしまったとしても費用的ロスはないが、買ったばかりのキーボードが壊れてしまったら一気にロスが発生して、会計的に費用処理しなければならない。だから、新しいキーボードは大切に扱いましょう。
これは、効用というようなことに目を向けていうと、古いドラムセットは長い間いろいろな人が叩いてきて効用を使い尽くしているが、新しいキーボードはまだほとんど弾かれておらず効用が使われず残っている。にもかかわらず、ぞんざいに扱われて壊れてしまったら、それが無駄になりもったいない。
このような考え方は成り立つのかも知れない。

だがやはり、壁に貼り紙をして利用者に注意を喚起するというのは、経済の問題ではなくモラルの問題だと思うので、「新しいから大切にする」という文句は私には違和感があるのだ。

2009年9月14日 (月曜日)

インサイダー取引についてのNK新聞の本日の解説において、「重要事実」とは何かということに(当然のことながら)言及されていた。
「上場企業の公募増資や株式交換、合併、会社分割など、企業の経営戦略にかかわる情報」を始めとして、重要事実に相当する事項が列挙されている。
で、気になったのが、次のくだり。

「「重要事実」に当たらないのは人事情報など一部だけだ」

たしかに金商法166条2項に挙げられている文言のなかに人事情報というのは見当たらない。

でもたぶんおそらく、上場会社で次のようなことをしたら、間違いなくインサイダー取引とされるのではあるまいか。

(仮定の話)
○月×日、経済紙のみならず、一般紙の一面にも次の記事が載った。

イチロー引退 A社社長に就任

大リーグシアトルマリナーズのイチロー(本名:鈴木一朗)は×日会見を開き、今シーズンをもって現役を引退し、引退後は株式会社Aの代表取締役社長に就任することを発表した。引退後は米大リーグ、日本プロ野球界とは一線を置き、会社経営者として第二の人生を歩むとしている。引退の理由についてイチローは(後略)

この発表の前に、このようなサプライズ人事を企て成功させたA社の役職員が、自社株を大量に買いつけていたら、それはやっぱりインサイダー取引に当たるのではなかろうか。

金商法166条2項には、「悪名高き」バスケット条項が記されているわけだし。

イイ加減な作り話に固有名詞を出してしまい、イチロー選手には申し訳ない。
だが、人事情報であってもそのようなビッグネームが踊るようなら、株価が動くことは容易に期待できると思う。

もっとも本日のNK新聞の記事は、居酒屋や通勤電車でたまたま隣り合わせの人が話しているのを聞いた人が取引した場合でもインサイダー取引になると書いてあって、ずいぶんとイイ加減なとこはあるのだが。

2009年9月 1日 (火曜日)

株主総会の議決権行使の集計結果の開示資料のリンク集。
(誰か作っていても不思議ではないと思うのだけれども、見当たらなかったので)

私が現時点で聞いた話のなかでは、今年株主総会の議決権集計結果を開示した企業数というのは、34社という数字が最大なのだけれども、聞き違いの可能性はある。私が分かったのは32社までである。
以下にその32社のリンク集を掲げるが、うち2社は報道等で開示されたことは間違いないのだけれども、その資料を見つけることができなかった。
Specisal thanks は大和総研さんに。同社の調査をたいへんに参考にさせていただいた。
掲載は証券コード順。

高松コンストラクショングループタカマツ 東証1トウショウ 1762 http://www.takamatsu-cg.co.jp/ir/finance/pdf/20090711142055.pdf
大気社タイキシャ 東証1トウショウ 1979 http://www.taikisha.co.jp/ir/PDF/64giketsukenkoushi.pdf
ローソン 東証1トウショウ 2651 http://www.lawson.co.jp/company/ir/library/pdf/ketsugi/ketsugi_34r.pdf
カゴメ 東証1トウショウ 2811 http://www.kagome.co.jp/company/ir/report/giketsu_total/total_65.html
三菱製紙ミツビシセイシ 東証1トウショウ 3864 http://www.mpm.co.jp/ir/etc/090626.pdf
住友ベークライトスミトモ 東証1トウショウ 4203 http://www.sumibe.co.jp/account/pdf/118voting.pdf
第一三共ダイイチサンキョウ 東証1トウショウ 4568 http://www.daiichisankyo.co.jp/ir/pdf/DS_Stock_03_Voting_j.pdf
アクセス(2009.1ジャスダック上場廃止) 4700 http://www.acces.co.jp/ja/ir/irnews/h22/pdf/090701.pdf
カルチュア・コンビニエンス・クラブ 東証1トウショウ 4756 http://www.ccc.co.jp/fileupload/pdf/ir/20090629_giketsuken.pdf
コニカミノルタホールディングス 東証1トウショウ 4902 http://konicaminolta.jp/about/investors/pdf/stock/meeting_105_report.pdf
資生堂シセイドウ 東証1トウショウ 4911 http://www.shiseido.co.jp/ir/shareholder/s0906shm/img/shm40004.pdf
グローリー 大証1ダイショウ 6457 http://www.glory.co.jp/ir/img_pdf/soukai01.pdf
マブチモーター 東証1トウショウ 6592 http://www.mabuchi-motor.co.jp/ja_JP/investor/pdfs_gm/gmr2008a_j.pdf
オムロン 東証1トウショウ 6645 http://www.omron.co.jp/ir/kabunushi/soukai/pdfs/giketsuken_72nd.pdf
ソニー 東証1トウショウ 6758 http://www.sony.co.jp/SonyInfo/IR/stock/8ido18000001xnqf-att/result_J.pdf
フェローテック JASDAQ 6890 http://company.tv-asahi.co.jp/contents/soukai/0010/data/S625.pdf
イオン北海道 東証1トウショウ 7512 ?
バンダイナムコホールディングス 東証1トウショウ 7832 http://www.bandainamco.co.jp/ir/stock/meeting/pdf_bnh/090623_3.pdf
長瀬産業ナガセサンギョウ 東証1トウショウ 8012 http://www.nagase.co.jp/ir/stock-information/stockholders-meetings/document/shm_094.pdf
三菱商事ミツビシショウジ 東証1トウショウ 8058 http://www.mitsubishicorp.com/jp/ja/ir/adr/sh_meeting/pdf/result_2009.pdf
サンゲツ 東証1トウショウ 8130 http://www.sangetsu.co.jp/company/ir/event/pdf/200903_kousi.pdf
リョーサン 東証1トウショウ 8140 http://www.ryosan.co.jp/news/pdf/090708.pdf
アデランスホールディングス 東証1トウショウ 8170 ?
ニッセンホールディングス 大証1ダイショウ 8248 http://www.nissen-hd.co.jp/ir/pdf/IR_09_03_19_3.pdf
住友信託銀行スミトモシンタクギンコウ 東証1トウショウ 8403 http://www.sumitomotrust.co.jp/IR/company/jp/pdf/kabunushisoukai/090626-2.pdf
大阪証券取引所オオサカショウケントリヒキジョ HCS 8697 http://www.ose.or.jp/profile/press/090625_14776.pdf
マネックスグループ 東証1トウショウ 8698 http://www.monexgroup.jp/jp/ir_library/meeting/pdf/vote.pdf
ソニーフィナンシャルホールディングス 東証1トウショウ 8729 http://www.sonyfh.co.jp/ja/shareholder/meeting/090623_03.pdf
テレビ朝日アサヒ 東証1トウショウ 9409 http://company.tv-asahi.co.jp/contents/soukai/0010/data/S625.pdf
角川グループホールディングスカドカワ 東証1トウショウ 9477 http://www.kadokawa-hd.co.jp/topics/20090622.pdf
トラスコ中山ナカヤマ 東証1トウショウ 9830 http://www.trusco.co.jp/ir/disclosure/pdf/other/20090612.pdf
オートバックスセブン 大証1ダイショウ 9832 http://www.autobacs.co.jp/ja/ir/62kekka.pdf

2009年8月 3日 (月曜日)

選挙は戦いなのだろうか?

議員の人たちは、なんの疑問もないかのように、「今度の選挙は負けられない!」だの、「お願いします。私たちを勝たせてください!」などと絶叫する。

しかし、私にはたいへんに違和感があるのだ。

私は甘ちゃんの原理主義者なので、選挙というものは、立法担当者ひいては政権担当者の選択をするためのものであって、それは勝ち負けという問題ではないと考えている。

例えば今度の衆院選で、民主党候補者が多く当選するとか、自民党候補者があまり当選しないとか、日本共産候補者党はやはりほんの少ししか当選しないとか、そのような結果となったからといっても、それは勝ち負けの問題ではないと思っているのだ。

それは何かといえば、有権者が立法府のメンバーを誰にするかを選んだ結果なだけであって、選ばれた人はその主義主張に沿って議員としての仕事をすればよいし、選ばれなかった人は、別に負けたわけではなく、ただ選ばれなかっただけだと思うのだ。

で、「選ばれない人」という存在は、選挙というシステムにおいては必要不可欠の存在である。
何故なら彼らがいなければ、「選ぶ」という機能が働かないからである。

だから、選ばれなかった候補者には存在意義が十分あるわけで、選ばれなかったという結果は有権者がそのような選択をしたというだけのことであって、勝ち負けというのとは違うと、私は考えるのである。

有権者が各候補者の政策を吟味して選択をする、というような合理的な投票行動をとるとは私だって思っているわけではない。それでもある程度の総合判断をした結果として有権者はひとつの選択をし、それが選挙の結果として現れ、それがその時点でその共同体がとるべき最善の方向であるとする、というのが議会制民主主義の思想だと考えられる。
だから、選挙を各候補者の「勝ち負け」ではなく、われわれ有権者の行う「選択の過程」だと私は捉えるのである。

まあ、候補者にしてみれば、「選ばれたい!」と思う気持ちが満たされるか否かの違いはあるのだろうが。

2009年7月 2日 (木曜日)

株主総会の会場の配置というのはだいたい決まっていて、普通は次の図のようになる。
20090701_1

すなわち、前のほうに役員席が設けられていて、取締役・監査役の役員(監査役設置会社を想定)は株主のほうに向かって座る。
対して、株主は役員のほうを向かって座る。
つまり、役員と株主が対面する形で位置するのである。
(図の矢印の向きが、座る方向を表わしている)

役員席の奥のほうにある事務局というのが株主総会には特徴的かと思うが、ここには会社の事務方の人間や顧問弁護士などが座ることになっている。座る向きは、ほとんどの場合図のように、株主に対しては横向きとなっている。
なお、事務局は飽くまで裏方であり、役員席の奥まったところ、場合によっては一段低いところに位置し、黒子に徹する。

さて、これが伝統的かつ標準的な株主総会の配置である。
ポイントは、株主の出入口と役員の出入口が別であること、その昔総会屋が跋扈していたころには、図の点線部に机を隙間なく並べたり、株主席の最前列を社員株主で埋めたりという対策も行われていた(総会屋が役員と直接接触しようとするのを防ぐ趣旨である)。現在の株主総会の配置においても、その名残が感じられることがないではない。

時代は移り変わり、株主総会をシャンシャンと終わらせるのでなく、もっと株主に丁寧に説明しようという方向へ変わってきた。
プレゼンテーションにはパワーポイントを使うのが普通となり、それを株主総会でも使わない手はないだろうというところも増え、株主総会の場でそのような投影機材を使う動きが広まってきた。
これを、株式実務業界では「ヴィジュアル化」と呼んでいる。
営業報告(当時:現在では事業報告)を「ヴィジュアル化」して行う、という意味なのであろう。

けっして、役員の選任基準としてヴィジュアル系かどうかを重視するようになった、というわけではない。

みんな気づいているかどうか分からないが、業界では「ヴィジュアル化」といえば、すぐに通じてしまうのだが、一般的にはおかしな言葉遣いに違いあるまい。

ともかく、このようにヴィジュアル化に取り組む風潮が強まってきた時代の話である。当社にとっては今から5年前のことだった。世間と比べて決して早いという話ではないので念のため。

スクリーンを置くため、役員席を切り詰めたのはいいとして、ハタと困ったのは、パワーポイントの操作者の居場所であった。

(続く)

2009年6月26日 (金曜日)

41分、0名であった。なしというのは久々ではないか。さびしい。

とりあえず開示をしてみた。
様式は現在のところのデファクトスタンダードと思われるものにほぼ従ったのだが、今後の検討が課題である。ネタはいろいろ浮かんできた。
報道機関の方もちょっとだけ反応してくださったが、ずいぶんと調子のいい応対をしてしまった。イイのか、こんなことで?

BGM用のCDがなかったので、手許にあったをつないで、中にはいっていたうちからCorelliを流してみた。ひたすらcorelliを流す。それのみ。何故って、今度の演奏会で取り上げるからである。会社の私物化といえるが、Cカゴ総領事ほどではないと思う。
しかし思ったが、同じ棒にはいっているPISTONの練習の録音などは、間違っても流すことはできまい。BGMというのは、だいたい聞き流していてまともには取り上げないけれども、それでもBGMになる演奏を出来るってのは、実はすごいことであると思った。

2009年6月24日 (水曜日)

法律上、正当な権利があるとか、教科書的に正しいかとかにかかわらず、実戦上の原則として「キャッシュを手許に引きつけておいたほうが強い」というのはある。

以前にある報道番組で、前払いで注文住宅を頼んだ人が、アー○ンエステートや富○建設の破綻によって、お金が返ってこなかったり、建築が途中で止まってしまって困っているという問題を取りあげていた。
番組では、何の疑問もなく「被害者」といっていたが、あれは被害なのか。
損害には違いないと思うけど。

しかし、借金をしてまで前金を払うというのは、リスク管理上はけっこうリスキーな構図ではないか。

ほかからお金を借りて、そのお金をほかに回すという構図は、こう言っては「被害者」たちは怒るだろうけど、借金を返すためにほかから借金をするのと同じ面があるように見える。

法律上の権限とかそんな難しいことを考えずとも、(日銀券にかなりの信用がおける)現在の日本社会なら、現金(まあ、預金でもいいけど)を手許に引きつけておくのが一番強かろう。

だから、借金をして前金を払ったのに建築が途中で止まってしまって窮地に陥った人が、次に取るべき最も強い手段は、現金収入があったら、それを返済に回さず自分の懐に引き寄せて離さないことである。

それは借金の踏み倒しじゃないか、という声も聞こえるが、現にくだんの報道番組によれば、一部の「被害者」は、安易にローンを組ませて金を貸した「金融機関の責任を問う」という手段に出ているらしい。それはまさしく返済をせず現金を手許に引きつけておく一変形にほかならない。

2009年6月 8日 (月曜日)

ヤマモト・ヒデアキさんより朝一電話。

ファクシミリで送った履歴書を郵送で返してくれという依頼なので、可も不可もなく了承した。

しかし、うちは仮にも紙会社なので、紙はいっくらでもあるんだけれどなぁ。

2009年6月 5日 (金曜日)

終戦後GHQが占領下の日本で接収した財産などをもとに築いた資金がある。
数兆円にも上るといわれる規模のその資金は、日本経済復興のために密かに運用されている。
その存在は極秘に隠され、日本政府の各官庁も公式に認めることはないが、日本経済のため名だたる日本の企業に対して秘密裏に融資されている。

久々に思い出したよ、M資金という言葉を。

昔、代表取締役宛に来た手紙を見たことはある。
最近のM資金は、電話なのか?
会社にこのような話をしてくる電話の相手をさせていただいた

ところで、本日受けた電話も、前に見た手紙も、実物にはM資金という言葉を使っているわけではない。

今朝電話してきた人のトークでは、融資を受けたという企業を2つを挙げていた。
M下電器さんとKセラさん。
M下さん、世界統一ブランドで社名もPナソニックにしたのに、まだまだ浸透していないみたい。
Kセラさんでは、I盛名誉会長の名を出していた。しかし、I盛さんを語るに「有名な経営者」はあまりに芸がないと思う。

で、昨今の経済情勢のなかで、日本の企業を支援するために、その融資話をしたいので、代表取締役に「明後日にでも」時間をとってもらって会いたい、ということをいうわけである。

私が知っているのは、M資金側が社長などの要人にアポを取りたいというところまでなので、実際にアポをとって資金側のエージェントの人がやって来てどのようなことをするのかは知らない。
(普通、そんな手紙は放置プレイだし、アポは断ることになる)

後学のために、いったいどのような人がやってきて、どのようなことをするのか、怖いもの見たさで知りたい気はする。

本日のM資金は、安田銀行の御曹司が資金の管理をしているという話にしていた。
安田財閥といえば、芙蓉グループ。みずほ銀行ではないか。
ちがう、安田財閥といえば、安田講堂である。
今年のTTC(東京大学トロンボーンクラブ)は30回記念、10月11日(日)に、安田講堂で行う。ぜひ皆さまのお越しを。

話が逸れた。

M資金の手法としては、話の発端としていかにもそれらしいビッグネームを持ち出して相手の信用を得るというのが常道らしい。皇族とか政治家、高級官僚などの名前を持ち出すのだ。
もし今日の話で、こっちが「では一度お話を伺いましょう」などとなったら、そこに「安田」さんなる人が現れるのであろう。ああ、見てみたい、安田さん。

で、元に戻るが、電話をしてきた人はヤマモト・ヒデアキという方で、自分を信用してもらうために略歴をファックスで送るという(何故か、そこの振り仮名は一箇所ヒデモト・ヒデアキとなっていたが)。

しばらくすると、本当にファックスが送られてきた。
この手のものは、何故か分からないが、手書きなのである。
そのプロフィールを信用する限り、ヤマモト・ヒデアキさんは大正生まれで、現在86歳ということになる。86歳かぁ……。もし本当に86歳で、M資金のアポメイカー(振込み詐欺でいうと、とにかく電話をしまくる下っ端相当か?)をしているのだとしたら、それはちょっと哀れを感じるなあ、と思った次第である。

M資金の一般的説明のほかに、なぜ当社に電話をしてきたかというストーリーもヤマモトさんは長々と語ってくれた。騙ってくれたのではないことを祈ろう。

要は、Mツビシつながりなのだが、こういう人はたくさんいらっしゃって、特段珍しいものではない。
つながりといっても、今日のヤマモトさんのお話は、昔自分が働いていた造船所の隣にMツビシの造船所があって、船の内装を出したりした関係で一緒に仕事をしたこともあるので、Mツビシには格段の愛着がある、というくらいのものである。立派なつながりといえよう。

おっと、私は早合点する性質なので、てっきりヤマモトさんはM資金の人かと思ってしまったが、間違っていたかも知れぬ。

午後、もう一度かかってきた。
こらえ性のない私は、「安田さん」のアポをとる前に、面倒臭くなって断ってしまった。
(よく考えたら、私はそういう係りではなかった。でも、誰もやらないから仕方ないのであった)

しかし思ったが、M資金の信憑性というのは、GHQが戦後に日本の富裕層から金目のものを取り上げたという構成に一端を負っているのだが、我々の世代ならともかく、もっと若い世代----親が戦後生まれ=親から直接戦争の話を聞いたことのない世代----にはピンと来ず、もっともっと若い世代----祖父母が戦後生まれ=直接戦争を体験した人の話を聞いたことのない世代----には、まったく通用しなくなるのではなかろうか。

2009年6月 4日 (木曜日)

昨日書き忘れたが、取締役選任議案には、氏名・生年月日・略歴のほかに、「持ち株数」という記載もされるのだった。

またこれも書き忘れたのだが、私がこのようなのを初めて見たのは、4523の製薬会社さんである。こちらのほうは、もう、なんとも素晴らしく、一歩も二歩も先を行っているのに感動したものである。

2009年6月 3日 (水曜日)

株主総会(6月総会)の招集通知が発送し始められた。

MCのを見て、やられたぁと思った(のは私だけのようだが)。

数年のブランクを経て、この業務に戻り、実は会社法下での総会は私は初めてだったりするのだが、会社によって濃淡はあるが、剰余金の処分を取締役会決議事項にし、退職慰労金なども廃止の方向にある昨今、株主総会の実質的意義は、取締役選任議案を諮る場であるということが浮き彫りになってきているといえよう。

するとどうなるかというと、株主総会は、選挙とのアナロジーで捉えるのが分かりやすくなってくる。

株主という有権者は、この人に経営を任せていいのかどうかを判断して、議決権行使と呼ばれる投票をするわけである。なかには誰がやっても同じさとばかりに、議決権行使には無関心な人たちもいるが、会社法では選挙と違って定足数があるので、最低限の方々には会社としては「投票」してもらわなくてはならない。

さて、選挙だとすると、ひとつには開票結果の開示が望まれてくる。
誰が市長になりました、という結果だけでなく、誰が何票をとって次点の人とは何票差で市長になりましたということが知りたいと思われるようになる。

そして、投票するほうには、候補者はいったいどんな人なのかい?という素朴な疑問が生まれてくる。
選挙になると、どこからか掲示板が持ち出され、そこにポスターがべたべたと貼られる。
たいていのポスターは、候補者の顔写真が載っている。

そう思って株主総会の招集通知を見ると、これが候補者が誰か、名前とか年齢とか略歴とかは書いてあるのだが、不思議と顔写真を載せるということは行われてこなかった。

でも、選挙とのアナロジーで考えると、今後はどうなるか、想像できるのではなかろうか。

…というようなプレゼンのようなものを、冗談交じりでこの春先に行ったのだが、やられたよ、MCさん。そんなこと一言もいってなかったじゃん。

2009年5月 7日 (木曜日)

下請法の話を音声だけで聞いていると、最も肝心の主客が逆転して聞こえるような気になってくる。

それは。

下請法には親事業者と下請事業者とが登場し、つまりは、親事業者は優越的な地位を利用して下請事業者をいじめてはいけないよ、という法規制なわけである。
親事業者か下請事業者かは、資本金の額によって外形的に決めているが、たいていの場合、イメージ的に、親事業者=大企業、下請事業者=中小企業という図式が成り立つ。

さて、下請法の話をすると、この2つの言葉が頻繁に登場するのは当然のことである。

が、音だけで聞くと、親事業者はオヤジギョウシャであり、これがオヤジ業者という文字を連想させるのである。

甚だ通俗的イメージなのであるが、オヤジ業者⇒社長のオヤジが一人または極数人を雇ってやっている零細企業、という連想が走ってしまうことがある。

オヤ・ジギョウシャと「・」のところで間を空けて言えばいいのだが、それを怠って一息で言うと、オヤジという響きのインパクトが強くて、どうしてもオヤジ業者に聞こえてしまうのであった。

すると、オヤジ業者が下請業者のほうを指すような気になってしまい、話がへんてこになるのである。

2009年4月30日 (木曜日)

反社条項というよりは、暴排条項というほうが多いのか。
googlの結果はそうでもないけれど、どちらが普及していくのであろうか?

私はちゃんと研究していないのだが、必ずしもこのような論理的に乱暴な条項(相手が反社会的勢力と関係があったら、無条件かつ即座に解除事由となる)は好きではなく、そういうのは一般条項でいくのが筋かとも思うのだけれど、現実の場面ではこういうのがあったほうがやりやすいのかも知れない。現実の場面に出会ったことは幸か不幸かまだないのだけれども。

2009年4月14日 (火曜日)

(続き)

法律用語辞典には、この数年に刊行された物にすら「コンプライアンス」という項目がないことがあるのに対して、金融用語辞典を見ると、さすがに金融検査マニュアルを受けてか、この言葉や関連する項目について、詳細に解説がなされている。少なくともそれは法律用語辞典の比ではないのである。

私の普段の生活では、金融用語辞典のようなものを引っくり返す機会はなかったため、そのことを現在まで認識していなかった。

一例として、金融財政事情研究会『金融実務大辞典』(2000年)を見ると、コンプライアンスに関して、これでもかというほど項目が採られている。
・コンプライアンス委員会
・コンプライアンス・オフィサー
・コンプライアンス環境
・コンプライアンス・スケジュール
・コンプライアンス体制
・コンプライアンス担当者
・コンプライアンス・プログラム
・コンプライアンス・ポリシー
・コンプライアンス・マニュアル
・コンプライアンス・レポート

金融界でも、金融検査マニュアル以前はコンプライアンスという言葉が使われていなかったかも知れないという証拠にするにはちょっと弱いのだが、次のような例もある。

東洋経済新報社『金融辞典』(1994年)→記載なし

最後に、データベース的に新聞の記事の検索をできるヤツを使ってみる。もちろんお金がかかるので、見出しを眺めるだけで、記事の中身は取り出さない。

日経朝刊について、「コンプライアンス」で検索すると、5000件近く出てくる。最も古いのは1981年だが、その年は2件、1982年は1件、その後2年はなくて、次に出てくるのが1985年1件くらいなので、コンプライアンスという言葉が人口に膾炙していたか、という視点からは、無視して構わないと判断される。

その後、1987年からしばらく引っかかるのが、東芝ココムである。
これが90年代まで続く。
その次の山が、1990年代後半である。金融会社の名が並ぶ。「(人事)」という項目も頻出するのは、この時期に金融機関がコンプライアンスの選任部署を設けたことによると推察される。

かくして、ノストラダムスの大予言ははずれ、Y2K(2000年)問題(既に歴史的事件か)も滞りなくクリアーし、21世紀を迎え、コンプライアンスという言葉は企業社会において広く普及し一般的に使われるようになった。

「金融検査マニュアル」は、いうならば、ある種の公務員のある種の業務に使われるマニュアルに過ぎない。いくら金融(監督)庁がそれを公表し、監督対象の金融機関に対して、「このマニュアルを使って検査するからな。特別に前もって見せてやるから、検査のときに引っかからないようにちゃんとやっとけよ」と指導したからとはいえ、これによって唱えられたコンプライアンスという言葉を見ると、感心するほどの普及具合ではないだろうか。

それでもやはり、日本人の意識と相俟って、この言葉の使用の実態については、いろいろと考えさせられることが多い。

例えば、次のような言葉遣いはひどく興味深い。

「コンプライアンスを守る」

私はこれはおかしな言い方だと思っている。
いわゆる狭義のコンプライアンスとして言われる「法令遵守」という言葉をあてはめても、「法令遵守を守る」という屋上屋を重ねる言い方であるし、「社会からの要請・期待に応えていく」ことを「守る」というのも変であろう(それだったら、私流の訳「悪いことをしない」を守る方がまだしも通じるのではあるまいか)。
「コンプライアンスを守る」という言い方は、お上から言われたことだから、という意識が垣間見え、コンプライアンスというものを規則やら規範と同列に捉えていると考えられる。

「コンプライアンス違反」は、確かに通じるし、これはもう市民権を得た言い回しといってよかろう。「違反」を言い換えると「反する」で、その逆が「守る」だから、コンプライアンス違反ではないことを示すのに、「コンプライアンスを守る」というのかも知れない。
しかし、既に記してきたように、そもそもコンプライアンスという言葉には、「応える」「応答する」というような意味合いが込められているため、応えないことを示すのにコンプライアンス違反とはいえるのだが、その逆にはしがたいのである。

やはり、コンプライアンスは金融用語であり、その出所は金融検査マニュアルなのである。だから、コンプライアンスは、マニュアルのように「守る」ものとして捉える向きが出てくるのであろうか。

もっとも、コンプライアンスという言葉も、実はそれほど一般的ではないという証左を示して、本稿を終わりにしたい。

岩波書店『広辞苑』の最新刊は、2008年に出された第六版である。
最も人口に膾炙していると思われるこの辞典に「コンプライアンス」という項目は、採られてはいない。

(了)

2009年4月13日 (月曜日)

(コンプライアンスの続き)

三省堂『コンサイス法律学用語辞典』が与えてくれた重大なヒント。
それは、コンプライアンス・プログラムやコンプライアンス・マニュアルという言葉が、実は金融検査マニュアルから来ているということが読み取れることである。

金融検査マニュアル!

いよいよ我々は、今日のコンプライアンスという言葉の出所についての重要な示唆を得たのである。

では、その金融検査マニュアルとはどのようなものなのか?

これが現行のその物である。
正式名称を「預金等受入金融機関に係る検査マニュアル」という。
PDFで1.42MB、A4で300ページほどもある。これを読むのはしんどいので、その下のQ&Aを見ると、最初に、そのものずばりのいい質問があるではないか。

[Q]金融検査マニュアルとは何ですか。

[A]金融検査マニュアルは、検査官が、預金等受入金融機関を検査する際に用いる手引書として位置付けられるものであり、各金融機関においては、金融検査マニュアルを参照しつつ、自己責任原則に基づき、経営陣のリーダーシップの下、創意・工夫を十分に生かし、それぞれの規模・特性に応じた方針、内部規程等を作成し、金融機関の業務の健全性と適切性の確保を図ることが期待されます。

これだけでは、基礎知識がないと何のことやら分からない。

金融方面の人には常識なのだろうが、私は素人なので以下の記述は間違っているかも知れない。

原初の金融検査マニュアルは、1998年8月に金融監督庁(当時)で検討が始められ、翌1999年7月に公表された。

その背景には何があったのか疎いのだが、MOF担のスキャンダルが報じられたり、拓銀や山一や長銀が立ち行かなくなったのが1997年から1998年にかけてのことだったと記憶している。

金融検査マニュアルは、原初こうであった。
まだ140ページあまりで、現行の半分以下である。

そして、このなかでコンプライアンスという言葉が50回ほど登場する。
使われ方としては、コンプライアンス単独のほか、コンプライアンス体制、コンプライアンス・マニュアル、コンプライアンス・プログラム、コンプライアンス・オフィサーなど。
(ちなみに、現行金融検査マニュアルではページ数の増加に比例して、コンプライアンスという言葉の登場回数は100回ほどである)

ところで、この金融検査マニュアルであるが、第一次的にはQ&Aにも示されるとおり「検査官が金融機関を検査する際に用いる手引書」である。
そのようなものが、なんだか知らないけれども、会社法務に多大な影響を及ぼしてきているのである。

今日のコンプライアンスという言葉の隆盛?が、金融検査マニュアルから来ていることは、『現代用語の基礎知識』のコンプライアンス特集が2000年版に盛り込まれていることからも理解される。
先に述べたように、この辞典の2000年版は前年1999年時点で編まれているものであり、その年の7月に発表された金融検査マニュアルはホットな話題であったのである。

コンプライアンスという言葉が、金融検査マニュアルから来たということは、この言葉は法律用語というよりは、金融用語であることを示している。

両者は決して遠いものではないが、法学部と経済学部くらいの距離はあるのだ。
もしくは、弁護士と公認会計士くらいの世界の違いがあると思われる。

本稿の締めくくりとして、その証左を述べるつもりであるが、その前に、どうしてそのような金融用語であるコンプライアンスについて、法務部門が担当になったのかという根拠を発見したので、それについて触れる。

言われてみれば当たり前のことなのであるが、くだんの金融検査マニュアルには、検査にあたってのチェック項目が並べられているわけで、そのなかに次のような一節がある。

コンプライアンス等の法務問題を一元管理する体制等について、内部規定等を整備しているか。

つまり、ここでは自明のこととして、コンプライアンスは「法務問題」と言い切っているわけである。
別に私はそれが間違いだというつもりもないのだが、かくしてコンプラインスは、当の法務部門がその言葉を用語集に収める間すらなく、法務の問題だとされたのである。金融検査マニュアルによって。

(続く)

2009年4月11日 (土曜日)

(続き)

実は、日本語の法律用語辞典の類で、唯一「コンプライアンス」という言葉が引っかかったものがある。

三省堂『コンサイス法律学用語辞典』(2003年)

そこには、「コンプライアンス」そのものの記載はない。
もちろん、「コンプライアンス経営」も前述の記述によれば和製英語(それも出来たばかりと思われる)であるから、項目にはない。
あったのは、「コンプライアンス・プログラム」および「コンプライアンス・マニュアル」である。

そして、そこにはコンプライアンスという言葉の由来に関する重大なヒントが記載されていた。

話は変わる。
私のそもそもの疑問は、「コンプライアンスという言葉はいつごろから使われるようになったのか」ということであった。

法律用語辞典を調べるのと並行して、この疑問を調べるために、私は過去の『現代用語の基礎知識』をひっくり返して調べてみたのである。

ちなみに、最新の2009年版では、コンプライアンスについてこう記載されている。
コンプライアンス
法令、ルールや企業倫理(企業や組織活動においても個人、市民として準ずべき道徳規範)を順守すること。多くの企業では、コンプライアンスの専門部署を設け、倫理規定の制定、マニュアルの作成や研修を行っている。また不正行為や違法行為の発見や防止のための内部通報制度を設けている(以下略)

この現代用語辞典では毎年執筆し直しているのか、2008年版では次のように記載されている。
コンプライアンス
一般に「法令遵守」と訳されているが、業界団体や企業が自主的に定めた倫理規定の遵守も含めて用いられることが多い。マスコミの追及によって会社の社長や役員が記者会見の席上で深々と頭を垂れて謝罪する場面がテレビに出ることがあるが、コンプライアンスは企業の自己防衛のために不可欠な機能になりつつある。企業の違法・不正行為や反社会的行為への追及がこの15年ほどで極めて厳しくなり、説明責任、情報公開への認識が基本原則として急速に普及し定着してきた。

どちらの記載も「なんだかなぁ」という感は否めないのだが、世間一般認識現代用語の基礎知識としては、こんなものなのかも知れないし、それを直視すべきなのだろう。

さて、このように、このところの『現代用語の基礎知識』には「コンプライアンス」という項目が普通に掲載されているのであるが、遡って私が会社に入った年(1991年)のものを見てみる。
私の記憶では、コンプライアンスという言葉は、このころにはぜんぜん言われていないという認識であり、それを確かめようと思ったのである。

なんと、「コンプライアンス・プログラム」という項目があった。「法令遵守基本規定」と解説されている。うむむ。

どうやらこれは、東芝機械のココム違反事件の関連で、唱えられたようである。
今は亡きココム(1994年解散。ちなみにココムとは対共産圏輸出統制委員会)。なんだか、現代日本で不敬罪について語るような話だ。

このあと、『現代用語の基礎知識』からはコンプライアンス・プログラムという言葉が抜け落ちる。ただし、外来語カタカナ語の解説として、コンプライアンス・オフィサーという言葉が何故か取り上げられている。

朝日出版社『現代ビジネス用語 1996』というのがたまたまあった。
それを見ると、コンプライアンス・プログラムという項目があり、次のように解説されている。
「法規遵守基(ママ)定、輸出管理規定」
つまり、この時代、コンプライアンスという言葉は、せいぜいココム違反と絡めて認識されていたと推察される。

『現代用語の基礎知識』において、大々的に「コンプライアンス」が取り上げられたのが2000年版である。
ここでは特集のように取り上げられ、コンプライアンス・オフィサー、コンプライアンス経営(例の和製英語?)、コンプライアンス・ハンドブック、コンプライアンス・マニュアル等が詳細に解説されている。

おお、この年になにがあったのか?

注意を要するのは、『現代用語の基礎知識』の発売時期である。発行日は1月1日のようだが、たぶん前年の年末に翌年版が発売されるのでなかったか。

ということは、2000年版に盛られているのは、1999年時点での「現代用語」なわけである。

ここで引っかかってくるのが、三省堂『コンサイス法律学用語辞典』(2003年)にあったコンプライアンスに関する項目が、コンプライアンス・プログラムおよびコンプライアンス・マニュアルだったという事実である。

これが重大なヒントなのであった。

(続く)

2009年4月10日 (金曜日)

(コンプライアンスについての続き)

コンプライアンスという言葉が広く使われるようになったのがいつからなのか、自分の記憶だけではなく書誌学的に調べてみようと、とりあえず手元の法律用語辞典を引いてみた。

はたして、載っていない。

引いたのは、有斐閣『法律用語辞典』。私的には実用度No.1のお勧め品なので、これに載っていないのはちょっとショックであった。

とは言え、この手元にあるのは2000年の第2版なので、逆に言えば、それがこの言葉が使われるようになった時期の特定につながるかと期待された。

2006年の第3版を見てみる。2006年ならコンプライアンスという言葉もだいぶ人口に膾炙していたはずだ。

ない…

この時点では、私はまだコンプライアンスが法律用語であることを露ほども疑っていなかった。同辞典ではたまたま記載が漏れたのだろうくらいに考えていた。

しかし、図書館や本屋で目につく限りの法律用語辞典の類をひっくり返した結果、コンプライアンスという言葉が法律用語ではないということに気づくことになったのである。

以下は、そのひっくり返した結果である。

日本実業出版『法律用語の意味がわかる辞典』(2001年)→記載なし
有斐閣『法律学小事典』第4版(2004年)→記載なし
自由国民社『図解による法律用語辞典』(2006年)→記載なし
成美堂出版『超実用すぐひける法律用語辞典』(2006年)→記載なし

う~む。

このタイトルなら載ってるだろう、と引いたのが、
中央経済社『会社法務大辞典』

…ない。

編集代表:大隈健一郎、以下、河本一郎、酒巻俊雄、瀧田節という錚々たる名が連なるこの大辞典(10cmほどの厚さがある)なのに…。

まあ、錚々たるっていうことから分かるとおり、刊行は1984年。
少なくとも、この時期にはコンプライアンスという言葉が会社法務ではキーワードとしては認識されていなかったという貴重な証左ではある。

気を取り直して、辞典探索を続ける。

ぎょうせい『現代法律百科大事典』というのがあった。刊行は2000年。
全8巻にわたる大作である。

…ない。

全8巻だよ、8巻。2000年とちと古めとは言え、前記セミナーによれば2001年時点で「30%の会社がコンプライアンス・プログラムを既に作っている」のだよ。その前年の全8巻でこの体たらく。

コンプライアンスは外来語なので、もしかしたら法律英語辞典を調べないといけないのかも知れない。

自由国民社『法律英語用語辞典』第2版(2005年)

いいセン行ったかも。
compliance
現在日本ではcompliance経営という和製英語ができている。法令や規則などの規範を遵守して経営することである。

おお、なるほど、和製英語なのか。
そうすると、もともとこういう言葉遣いはなかったわけで、法律用語辞典などに記載がないわけも分かるというものよ。
並んで、次のような項目もあった。
compliacle audit 準拠性監査
compliance officer 行政官

ちょっと見えてきた。

(続く)

2009年4月 8日 (水曜日)

(続き)

「コンプライアンスという言葉は法律用語ではない」と私が断じる根拠は、世の多くの法律用語辞典のようなものに、この言葉が掲載されていないことにある。

最初私がこの言葉を知らなかったのは、単に学校でちゃんと勉強しなかっただけだからという気もしていた。

けれども、遅ればせながら勉強しようと、法律用語辞典でコンプライアンスという言葉を調べようと思っても、この項目は載っていないのである。

このことについて述べる前に、私がこの言葉を認識するようになった経緯なんぞを振り返ってみる。

コンプライアンスという言葉が私の耳にも聞かれるようになったのは、今世紀に入ってからであった。ちょうどそのタイミングで営業の仕事から総務の仕事に変わったというのもあろうが、2000年ころには、世間で進んでない会社ではまだまだ「コンプライアンス? そりゃまたなんじゃらほい?」という雰囲気だったと思う。

総務に移った私が、コンプライアンスという言葉を最初に意識して聞いたのがいつのことかは定かではない。
だが、手元の記録を引っくり返すと、2001年7月にコンプライアンスに関するセミナーを受講しているのが出てきた。おそらく、現在まで通じる私のコンプライアンスに関する知識は、このセミナーで聞いたことがベースになっている。
そこにメモされているのによると、当時「30%くらいの会社がコンプライアンス・プログラムを既に作っている模様」となっている。進んでいない当社会は、このときまだコンプライアンスという言葉を意識して扱ってはいなかった。
この後、当社がコンプライアンス体制について対外発表するのは2004年1月のことである。
この間に、私も担当者として「コンプライアンスとは何ぞや?」などとエラそうなことを話して曲がりなりにもコンプライアンス体制の構築の仕事をしていたのであるが、その当時に使われていたフレーズは(私が使っていたわけではないが)、「コンプライアンスです。天ぷらではありません」というものだった。少なくとも、私の周囲ではコンプライアンスという言葉はそう馴染みのあるものではなかったように思う。
私もエラそうに、「まず、コンプライアンスと発音できるようになりましょう」などと言っていた。別に英語的に正しい発音をしようというようなつもりではなく、カタカナ的にまだまだ耳慣れない言葉だったので、この言葉を認知していくのが第一歩だったように思う。
(余談だが、だから、私にとってコンプライアンスを説明する言葉は、前述の『突きつめて言えば「悪いことはしない」という至極当たり前のことである』という表現になるのだった)

前述のセミナーでも、その後いろいろ聞いたセミナーでも、「コンプライアンスは何ぞや?」という定義から話してくれるので、そうすると逆にこの言葉を辞典で調べる必要はなくなる。
だから、私はこの言葉が法律用語辞典に載っていないことを、ずっと認識してはいなかった。

ところが、最近あらためて、コンプライアンスという言葉がいつごろから一般的に使われるようになったのか調べようと思い、その一環として法律用語辞典を調べたところ、これが載っていないということに気づいたのである。

(続く)

2009年4月 7日 (火曜日)

(続き)

コンプライアンスという言葉は、法律用語ではない。

これが私が最近達した結論である。
「そんなバカな」という方がおられるかも知れないし、逆に「そんなことも知らなかったのか」という方もおられるかも知れない。

私もこのコンプライアンスという言葉がかまびすしく言われるようになったころ、それを扱うのは法務部門だろうと疑いもなく思った口なので、コンプライアンスという言葉が法律用語でないと分かったときには、ちょっと驚くとともに、ああなるほどと合点がいくこともあった。

その前に、実際問題として「コンプライアンスの担当はどこだ?」という問いについて述べておきたい。
この質問を発する人は、この質問の仕方だけで「コンプライアンスの担当は私(うち)ではない」ということを確認したいという欲求が裏にあることが透けてしまうのだが、それは措いておくとして、せめて「コンプライアンスって何ですか?」という他問・自問をしてからこの質問を発してもらいたいものである。

今さら「コンプライアンスって何ですか?」とは訊けないという説はある。マジメで常識的な人ほどそうかも知れない。
だた、あえてこう言いたいのは、このコンプライアンスという言葉が、かなりルーズに意味づけされただけで使われ蔓延しているという気がするからである。

一応私は次のように説明している。
「コンプライアンスは一般的には「法令遵守」と訳されるが、より広く「社会からの要請・期待に応えていく」という意味合いがある。人々が企業に対して「コンプライアンス」と言って求めているのは、突きつめて言えば「悪いことはしない」という至極当たり前のことである」

この言い方がどれくらい的確(もしくは不適正)なものであるかは、諸賢のご教示を待ちたい。

ただ、このように解した場合、「コンプライアンスの担当部署は?」という質問の仕方は、質問の仕方が馴染まないことはお分かりいただけるのではなかろうか。

株式会社に対して、「利益の担当部署は?」と訊くようなもので、「利益の担当は、営業部です」と答えて満足しているようなものではあるまいか。

つまり、「コンプライアンス・プログラムの担当部署は?」と訊くなら、「利益計画(策案)の担当部署は?」というのと同じことで、理解に難はないのだけれど、コンプライアンスとか利益とか、抽象度の高そうな生の言葉の担当は? と訊かれても、答えに詰まるというものである。

(続く)

2009年4月 6日 (月曜日)

コンプライアンス担当部署といったら、普通どこなのであろう?

私の感覚では、法務を担当する部門であることが多いように思う。
私はこれが一般的な感覚だと信じているのだが、もし違うようであれば、ぜひともご教示いただきたい。
なぜなら、このにっきの記述は、本日からしばらく「コンプライアンス」という言葉に関する考察に費やされる予定だからであり、本日はその前段の話となるからである。

経理部門のようには、全ての会社に定型的な形で法務部門があるわけではないことは知っている。法務部というように独立しているところもあれば、総務の一部門としているところもあるし、経営企画の一翼を担っているところもある。
それでも、多くの会社で「コンプライアンスを担当しているのはどこか?」という問いが発せられた場合、それは法務部門(方面)であることが多いのではなかろうか。
もちろんなかにはコンプライアンス室というように独立した組織を設けているところもあるし、逆にコンプライアンスは意識付け面が強いものでただ組織を作ればいいというものでもあるまいと、特段コンプライアンス担当を謳ってはいないところもある。

さて、私の問題意識は、次のことなのである。

「コンプライアンスという言葉は、いつごろ誰が言い出したものなのか?」

私がこの言葉を認識しだしたのがいつかということは後述するとして、昨今かまびすしいコンプライアンスが叫ばれる場面で、「おい、担当はどこだ?」という話になったときのことを考えてみよう。
その場合、「それは担当とかそういう話じゃなくて、企業風土とか意識から考えなければならない話です」などと説いても耳を貸されるものではない。銀行借入は経理の担当だというのと同じくらいの意味合いで、コンプライアンスの担当があってしかるべきという感覚で発せられる問いであるから、どこか特定の部署(人)を担当にするまでは止むことのない質問なのであって、たいていは法務の担当という答えになっているのだと思われる。

インターネット上ではうまくその物を見つけることはできなかった(求人サイトで「コンプライアンス」と入れると「法務」というのがいっぱい出てくるというのは分かった)が、コンプライアンス担当部署は、普通は法務部門であることの証左として、以下を挙げておく。

経営法友会会報より
(各社法務部門の紹介のページから)
この1年間に掲載された会社【全48社】のうち、法務部門がコンプライアンスを担当しているとしている会社数【42社】[比率88%]

このように、企業において「コンプライアンス」と言った場合に、その担当が法務部門とされることがほとんどであると考えられる。

それでは、コンプライアンスという言葉は、法律用語なのであろうか?

この問いに対する答えは、なんと「否」なのである。

(続く)

2009年3月17日 (火曜日)

蛇の目ミシンの取締役の責任を追及した代表訴訟に関して、「会社法の論考にはあまり書いてないと思うのだが、これには見せしめの効果しかないと思う。」などとエラそうなことを書いてしまったが、不勉強極まりなかった。

E頭先生の教科書には、こう書いてあった。

取締役の責任制度は、会社の損害の回復自体を目的とするものか(損害填補機能)、取締役が任務懈怠することを防止するいわば手段的役割のものか(抑止機能)という問題があるが、

そうかあ、問題として議論されていたのね。

E頭説では、次のように続く。

わが国の学説は、責任を負う取締役が複数ある場合に不真正連帯債務性を強調する等、前者を重視する傾向を捨てていない。しかし、前者の色彩を強く認めることは、取締役の人材の確保を困難にしかねないので、後者を重視する立場から解釈等を再検討する必要がある。

E頭説では、抑止機能(私の品のない理解では、見せしめ効果といったもの)を重んじていこうとするようだ。現実問題として、巨額の会社損失を取締役が賠償し切れるのかという事態があるわけだから、この制度に何らかの意味を求めるとしたら、それは抑止効果であろうという考え方だと拝察する。

経済的には…、その取締役が会社から受けた報酬が、預金なり株式なり不動産なりの換金しやすい資産で残っていたら、それを取り上げることはできそうだ。

2009年3月13日 (金曜日)

監査役のインサイダー事件ということで、日本SECもといSESCが金融庁に課徴金処分の勧告をしたらしい。報道もされていた。
上場企業であるから、誰でも無料で(すなわち、登記閲覧手数料や民間調査会社からの情報提供料なしに)、その監査役の実名を知ることができる(もっとも現在のネットの力は大したもので、そんな手間をかけなくてもニュース系掲示板などで名を知ることは容易い)。

私は、パイオニア製品は普通に信頼申し上げているし、個人的には何の罪もないのに対処に当たらなければならない担当者の苦労などが忍ばれてしまうのだが、根が下世話なもので、つい野次馬根性で調べてしまう。

印象的だったのは、当該監査役は、若いときに一度転職をしていて、それでパイオニアに入ったという経歴であった。ただ、そういう人は多いし、だから何だということはない。
この元監査役も、何だかんだでパイオニアには30年以上勤め続けたのだ。
ただ、長らく「財務グループ部長」という職にあったようで、そういう経理畑で銀行筋にも顔が売れていて、という人が監査役に就任するケースも、身近でないわけではない。
身近で同じような財務畑の人の顔を思い浮かべて、監査役になってインサイダー取引をするというのは、ちょっと想像に難があるなあと感じる。

それに、この人が監査役に就いていた間に、パイオニアは検事上がりの弁護士を社外監査役として迎えている。高名な方で、私も某同業者の総会を勉強がてら見学したときに、そこでも社外取締役に迎えられるということで、ご尊顔を拝したこともある。

そのような、おっかない人が身近にいながら、なおかつけっこう単純な手口(実際の売買は部下の名義で行ったようだが)の株の売買をしてしまうというのが、人間のなんとも不思議なところと思った次第である。

なお、これまた下世話なことなのだが、この前、役員退職慰労金について思料したこともあって、この場合どう動く可能性があるだろうと調べてしまう。
パイオニアも現在退職慰労金制度を廃止したようだが、その廃止したタイミングは2007年、まさに当該監査役が退任した時のことであった。
すなわち、当該監査役には退職慰労金が支給されているのであった。

さて、さらに下世話なことなのだが、この退職慰労金がいったいいくら支給されてたのかを調べてみる。…う~ん、さすがに不明である。が、めちゃくちゃ大雑把な当てずっぽうだが、過去の引当金の推移などから勝手に推測するに、監査役在任期間7年分の慰労金としても、堅く見ても5,000万円にはなるのでなかろうか。

今般のインサイダー疑惑で、元監査役が上げたと見られる利益は、わずか(と言っていいか分からないが)144万円である。

パイオニアのニュースリリースによると、「刑事、民事両面での法的措置を検討」とある。仮に、監査役在任中の報酬の返還などを求めた場合、どこまで認めるかなど分からないが、仮に私が退職慰労金について愚考したところで述べたように、退職慰労金は少なくとも返せという話になった場合、まったく割りに合わない。

2009年3月10日 (火曜日)

個人情報保護意識が高まっている。らしい。

先日見た某模擬株主総会でも、株主が発言の前に名前を言うのに抵抗を示す場面があった。銀行や病院などで待っているときにも、名前を呼ぶのをやめて受付番号などで呼び出すように変わっているところもある。

ところで、ファミレスや回転寿司などでは、込み合う時間帯には紙に名前を書いて、呼ばれるのを待つシステムがある。

あれって、みんな本名を書いているのであろうか?

昨今の状況からすれば、不特定多数の他人のいるところで自分の名前を知られたくはないから、仮名を書くようにしているという人がいてもおかしくはない気がする。

良からぬ輩が、裕福かつ隙のありそうな客を観察していて、その人をターゲットにしようなど狙っているかも知れない。みすみす名前を明かすような不用心をしなくてもいいのではないか。こう考える人もいるだろう。

また、全国の佐藤さんなどは、ああいう場面でバッティングした経験もあると想像される。

名前を書こうとしたら、前の欄にも「サトウ」と書いてあったとか。
人数が違えばまだしも、「えー、うちも4人だよ。お店の人ちゃんと間違えないでくれるかなぁ」と余計な気をもんだり。

あの紙に、例えば「バカボン一家」とか書いたらマズイのだろうか?

「3名でお待ちのバカボン一家さま」とかアナウンスされたら、やはり、どんな奴らだ?と注目を浴びてしまうだろうか。

そう言えば、ピストンでああいう場所にいっても、「ピストンクラブ」とは書かないなぁ。誰かが代表して「えびはら」とか「のぐち」とか書いている。何故そうなのだろう?

あの紙に団体名を書く人たちっていないのだろうか?

2009年3月 9日 (月曜日)

蛇の目ミシン事件というのがあって、2008年10月2日に最高裁判決が確定している。
事件の内容は、大雑把にいえば、株を買占めた仕手集団が巧みに当時の経営陣を恐喝して大金をせしめたというもので、そのことにより会社に損害を与えたとして株主代表訴訟が起こされたのが本件である。
最高裁判決では元取締役の責任を認め、結局総額で583億円にも上る賠償責任があるとされることになった。

ちなみに大本の恐喝事件が起きたのは、バブル真っ盛りの1988-98年にかけて。
代表訴訟が提起されたのが、1993年。15年の月日を経て、ようやく決着したということのようだ。

こういう報道があると、まず出てくる反応は「そんなに払えるわけない」ということになる。この金額が払えるとは、誰も思わないわけである。

けれども、そもそも代表訴訟の建前からは、「取締役がミスをしたことによって会社に損害が生じたのだから、その損害を賠償させて、会社の受けたダメージの回復を図る」というのが訴訟を起こす目的なわけである。
しかるに、判決を求める原告や判決を下す裁判官も、事実上払えるわけがないことは分かっていると思われ、そうなると代表訴訟の目的はいったいどこにあるのだろうかという疑問が沸いてくる。

取締役本人に支払い能力がなくても、D&O保険に入っている場合がある。それであれば、保険金として支払われる可能性はあるが、一般的なD&O保険もせいぜい上限は10億とか5億円くらいと思われ、運よく免責事由に引っかからず保険金が下りたとしても、とうてい583億円には足りないと思われる。

それに、現行のD&O保険が認可されたのは1993年で、実際に売り出されたのは翌1994年のことである。だから、現状同社がどのようにしているかは存じないが、この事件に関してはD&O保険による救済もあり得ない。

583億円もの賠償金が確定したとして、会計的にどのように処理しているのであろうか、という疑問が沸き調べてみた。
報道直後には、このような考察がなされたらしいが、結論的には「何もしない」ということのようである。

実際、蛇の目ミシンの報告書を見ても、何もなされた形跡はない。

同社は売上高が500億円、総資産500億円くらいの規模であるから、仮に583億円の賠償金を計上できるなら、ものすごいことになるわけである。
そんなことになったら、株価だって連日ストップ高だっただろうが、そんなことは何もなかった。

このように、法的にはそれなりの話題性とインパクトがあったと思うが、会計的には何の音沙汰もないわけである。今後、何がしかの回収がなされれば、都度特別利益に計上していくのであろうか。

とりあえず、会社財産に莫大な損害を与えたとして訴訟となったわけだが、そこで583億円の責任を認めるという成果が確定したとしても、実経済的には何も変化がないというのであれば、やはりその訴訟はいったい何のために行っているのだろうか、という疑問が残る。

会社法の論考にはあまり書いてないと思うのだが、これには見せしめの効果しかないと思う。
すなわち、「経営者は、ちゃんと経営しないと、えらく大変な責任を負うことになるぞ」という。
そして、見せしめとしての効果は、他の会社の経営者や蛇の目ミシンの現経営者には及び、結果としてその会社の株主の利益に資することになろうが、肝心要の、経営者の責任を質しにいった当時の株主には、実はほとんど何の意味もないのではなかろうか。
意味があるとしたら、いい加減なことをして(株主である)自分たちに損害を与えた経営陣を経済的に破綻に追い込むことによって復習心を満たすということしかないのではなかろうか。
復讐心というのは、ちょっと人を卑小に見すぎるか。「正義を貫くため」に費用対効果は省みずに訴訟を遂行したという気持ちもあるだろう。
だが、復讐心を満たすだとか、見せしめ効果だとか、正義を貫くだとかは、それは多分に刑事法寄りの概念であり、何やら民事事件には馴染まないような気がする。

2009年3月 6日 (金曜日)

このたび覚えた言葉。冒認出願

「冒認出願」とは、発明者でない者で、その発明について特許を受ける権利を承継していない者が出願し、特許を受けることをいう。
発明者は真実に発明した者に限られることは当然であり、「冒認出願」は許されないし(特許法第49条7号)、仮にそのような者に誤って特許が付与された場合はその特許は無効とされる(同第123条1項6号)。
産学連携キーワード辞典より)

特許法分野では基本的な用語であるようで、例えばこのような解説がなされているのをウェブ上で探すのは容易い。

たいへん恥ずかしながら、一応法学部を卒業して、会社法務の片隅にいることになっているのだが、このたび初めて覚えたのである。冒認出願。

言い訳をするのであるが、まず、当時「無体財産法」と呼んでいたと思うが、今なら「知的財産法」とでもいうであろう講座は取っていなかった(と思う。というくらい、記憶にないので、取らなかったと思われる)。業務上も、特許を初めとする知的財産については、別のセクションがあって、こちらの業務を担当したことは、一部例外を除いてない。

それに、私が座右に置いて頼りにしているレファレンス、有斐閣『法律用語辞典』にも、冒認出願というのは載っていない。
今これを打っているIMEだって、「ぼうにん」の変換候補には冒認は存在しないし、そもそも座右の岩波国語辞典にも、冒認という言葉は収録されてはいない。

けれどもやはり特許法の分野ではこの言葉は古くからあるようで、平凡社『国民法律百科』を調べると、冒認出願は載っている。ただし、本項目では採られておらず、索引巻を引くと「発明権」の項目のなかで冒認出願が出てくるのが分かる。読むと、「~(いわゆる冒認出願)」という使われ方がしていて、その世界では一般的に使われている言葉であることが窺がわれる。

けれども、やはり冒認は謎である。
手元の漢和辞典にも(当然のことながら?)出ていない。
ウェブで改めて「冒認」だけを検索しても、冒認出願しか出てこない。

冒認出願では、直感的に分からないと感じる。

盗用出願くらいにしてくれれば、かなり直感的に通じると思う。

2009年3月 3日 (火曜日)

スポーツの世界では、当然のように男女別に競うが、音楽コンクールでは普通はそんなことはない。昔はショパン・コンクールなどは男女別だったそうであるが、現在の普通のコンクールって、エントリーするのに(声楽は措いておいても)男女別の条件が課されることはないと思われる。
音楽コンクールだって、多分に身体のコントロール技術を競うものなのに、男女別にするというと現代では違和感を覚えるのではなかろうか。声の分野で、男女の声の高低は通常まるっきり違うが、NHK学校音楽コンクール(合唱コンクール)でも、課題曲は同じ曲を女声用、男声用、混声用などとアレンジを分けているのではなかったっけ。

スポーツの世界では、単純に力の強さや何かをする速さを競うような競技ではなく、例えばフィギア・スケートのようにアーティスティック・インプレッションが大きな比重を占めるような競技でも、男女別になっている。

スポーツの世界の住人のほうが、ジェンダー差別に寛容的なのではなかろうか?

2009年2月17日 (火曜日)

親方日の丸。

不況期になると就職先として公務員の人気が高まるという。親方日の丸、安定しているからだという。

地方公務員は親方日の丸ではないだろうということは措いておくが、法的に見て公務員は本当に安定しているのだろうか。

私の疑問は、人は何故、一度公務員になったらその地位はずっと続くと思うのだろうかということである。

「会社だったら、いつ倒産するか分からないじゃないか。その点、公務員なら潰れる心配はない」

確かに、民間企業であれば、破産法をはじめ、倒産することを想定した法規制が整備されている。裏返していえば、つぶれることもあると考えられているということである。それに対して、日本国家が倒産するという事態を想定した法の規定は(当然ながら)存在しない(多分)。けれども、地方公共団体に関しては、地方財政再建促進特別措置法があり、財政がピンチになった場合のことが法律上想定されている。

実際上も、日本の財政がいよいよ破綻したという状況を思い浮かべたとき、いくつかのグローバル企業は生き残っているかも知れないが、多くの日本企業がどうなっているかは分からなさそうだ。だから、公務員でもダメなときは民間企業もダメであろうし、やっぱり公務員のほうがトータルで見て安定していると考える人は多かろう。

「民間企業だと今の時代いつリストラされるか分からない。その点公務員なら安心だ」

公務員は身分を保証されているというイメージがあるが、果たしてそうなのだろうか?

国家公務員法弟75条。
(1)職員は、法律又は人事院規則に定める事由による場合でなければ、その意に反して、降任され、休職され、又は免職されることはない。
(2)職員は、人事院規則の定める事由に該当するときは、降給されるものとする。

問題はこの「人事院規則の定める事由」であるのだが、こいつの調べがついていない。

いずれにしても、上を素直に読む限り、国家公務員は裁判官のように強力な身分保障をされているわけではないように読める(cf.憲法78条)。

国家公務員法をさらに読み進めていくと、次のような規定が発見される。

国家公務員法弟78条。
職員が、次の各号に掲げる場合のいずれかに該当するときは、人事院規則の定めるところにより、その意に反して、これを降任し、又は免職することができる。
一~三 (略)
四 管制若しくは定員の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合

これを素直に読む限り、公務員制度改革が進まないのは謎である。
これを使う限り、時代や状況に合わせて、自在に無駄を削り、効率的な行政運営ができそうではないか。

なんちゃって。
こんな風にはっきり謳われすぎているからこそ、予算を消化して予算減少を阻止しなければと思うのかも知れないな、と感じた次第である。

2009年2月13日 (金曜日)

(続き)

思うに、退職労慰労金がこれほど嫌われてきたのは、その不透明性に大きく起因している。
退職慰労金については、いわゆる「お手盛り」になるのを防ぐため、株主総会で決議するということになっている。
だからといって、単純に株主総会で次のような議案として示されているわけではない。

弟X号議案 退任する役員に慰労金贈呈の件
取締役○山×夫氏は本総会終結のときをもって退任するので、在任中の労に報いるため、慰労金として金1億円を贈呈する。
なお、○山×夫氏の略歴は以下のとおり。(略)

こういう形で慰労金を支払っているのなら、おそらく不透明だとは言われない。

普通、実務的には次のように書かれてきたわけである。

弟X号議案 退任する役員に慰労金贈呈の件
取締役○山×夫氏は本総会終結のときをもって退任するので、在任中の労に報いるため、慰労金を贈呈したい。
慰労金は、当社所定の基準に従って支払うものとし、具体的な金額については取締役会に一任願いたい。
なお、○山×夫氏の略歴は以下のとおり。(略)

さて、よく分からないわけである。つまり、いくら払うのか?

「要するにいくら払うのか?」と訊きたくなるのが人情だが、「議案にあるとおり、当社所定の基準に従って計算いたします」と、木で鼻をくくったかのような答えがとりあえずは返ってくる。

「では、その当社所定の基準とはどんなものなのか?」と追求すると、次のような答えが返される。

「報酬月額を基準とし、役位に応じた乗数、役位年数を乗じ、功労加算金を基本額のXX%(一般的には20~30%)を限度とするなど退職慰労金の具体的金額を一義的に算出できる基準を、役員退職慰労金規程において定め、閲覧に供していますので、それを見てください」

仮に総会の場でこのような質問が実際に出された場合には、もう少し色をつけた答え方をして、結局は具体的な金額をいくらとはいわないのが、実務の対応といわれている。

よし、それならその基準を見て、計算してやれと思い、閲覧請求をして「規程」を見たとしても、「功労加算」といういわば人事評価のさじ加減の部分は不明のため、○○円くらいまでしか推測できないのが実態である。

もっとも1年待てば、事業報告書でいくら払ったかは分かるのではあるが。

「退職慰労金を払いたい」という議案にかかわらず、それがいくらなのか不明な議案を上程するというのは、いわば白紙委任しろといっているのと同様であり、不透明であるとの批判があるのは当然だろう。

退職慰労金には、あと年功的である性格に対する批判がある。
すなわち、年数が長ければそれだけで自動的に退職金という報酬が多くなるという制度では、業績に対する責任が薄れるだろうという指摘である。

この点に関しては、そういう面も否定はできないが、運用の問題とも絡んできそうで、毎年もしくは従前どおり2年に一度株主総会という場で行われる信任が実質的に行われるのであれば、無能な人がいたずらに在任期間が長くなるような事態は防げるとも考えられる。もっとも、ひとたび権力を手にしてしまうと、それを使って自らの地位を守ることは容易になるので、そのような運用(実質的な信任)機能が期待できないとおっしゃる人がいるかも知れない。

年功的であるというのは、政策的観点から価値判断できるもので、長期的な視野に立ったうえでの経営を献身的にしてもらいたいというならば、年功的すなわち長く勤めることを評価するという方法もあり得よう。

残るは不透明性の問題である。
割り切ってしまえばこの問題の解決方法は簡単で、○○円とはっきり出してしまえば終わる。

あとは、先日リストアップしたような退職慰労金制度のメリットと、それを比較考量して判断するだけである。

経済的には、○○円と出すだけで解決するなら、そっちのほうが有利だと個人的には思ったりする。他人ごと。

(了)

2009年2月12日 (木曜日)

役員退職慰労金の制度は、徐々に廃止される方向で進んでいる。
最新の総会白書によれば、現在のところ半分ほどの上場会社では、役員退職慰労金の制度は廃止されているようである。

私の勤める会社でも、4年前にこれを廃止している。その際の事務方に関わったのだが、当時は合併を白紙撤回した直後という波乱の時期でもあって、半ば勢いに乗ってやったという感がないではない。
廃止する理由として、招集通知には「経営改革推進の一環として」とさらっと書いているだけだが、一般的には、退職慰労金の制度は不透明で、業績連動報酬を重視する考え方からは不合理であるとされていたことが挙げられよう。

しかし、退職慰労金の制度はそんなに不合理なものだったのだろうか、という疑問をふと抱いてしまった。

実際の対応問題として、多くの会社で行われたと言われているのは、それまで退職慰労金として支払われていた部分を、月額報酬(要するにフツーの給料)に上乗せするような形にして、トータルでの支払い額はそう変わらないようにしたというものである。
ただし、もちろん業績に応じて多寡を決めるという考え方は無視されるものでなく、その意味ではその期の業績の好悪をすぐに報酬に反映し、役員報酬の開示レベルの向上とも相俟って、透明性は増す方向にある。

けれども、退職慰労金にも良いところがあるんじゃないかな、と素朴に思ったのである。

<退職慰労金のメリット>
■役員に対する長期的インセンティブ
役員が長期的に会社に対して尽くすインセンティブとなりえる。短絡的にある期の業績だけを無理のある方法(e.g.派手だけれども見通しに不安の残るM&A)をもって上げ、それに見合ったと称して莫大な報酬を取っていき、長中期のスパンで見れば会社にダメージを与えるような無茶を防ぐ働きが期待されるのではなかろうか。(ちょっと違うが、春日電機のようなケース)
■役員に対する規律の確保
上の裏返しではあるが、役員が任期中にへまをしたとき(会社不祥事)、退職慰労金を与えないというサンクションを与えることにより、へまを防ぐ効果が期待される。
■税制上の有利
退職金にしたほうが有利な扱いを受けられる。
■キャッシュフロー上の有利
会社とすれば、支払いが後回しになるわけだから、キャッシュフロー上有利である。
■退任後の責任追及の容易化
退任後に、その役員の現役時代のへまが原因の損害が出た場合(e.g.設備投資の失敗が表面化する/現役時代の不祥事が発覚する)、退職慰労金を返納させるというアクションが考えられる。もちろん法的に担保されるものではないし、月額報酬から返納させるという請求もあり得るが、「こんなことがあったのだから、退職慰労金は返してもらう」という話は、世間の理解を得られやすいのではなかろうか。

(続く)

2009年2月 3日 (火曜日)

ジャストインタイム生産方式は、下請法に違反しないのだろうかと、今さらのように思いついて調べてみる。

在庫を持たないためのこの方式は、製造業界において、優れた生産方式として称えられてきた。

ただし、このジャストインタイムが、ITを駆使するなどしてトータルで見て実質的な在庫削減になっているなら、文字通り称えられて然りなのだろうが、単に在庫負担を業者に押しつけただけであるようだと、それほど称えられるものだろうかという疑問が沸いてくる。

ジャストインタイム生産方式は、乱暴に言い切ってしまえば「工程間の在庫を極限まで減らすために、使う分だけを使う時に持ってくるようにする」という生産方式である。

問題は、誰が「使う分だけ使う時に持っていくか」である。
そこまでトータルで考えて、全体として最適を目指すのであればよい----これを考えていくと、おそらく需要予測の話になってくる----が、自分の在庫を圧縮する目的でジャストインタイムをやるという場合、使う分だけ使う時に持っていくのを、業者に要求するということになってくる。

要求された業者の立場からすれば、使う時にすぐさま持って行くためには、あらかじめ作っておかなければならない。いつ持ってこいと言われても対応できるように、業者は在庫を持っておく。これでは、在庫負担を業者に回しただけである。

この場合の業者が下請法の下請事業者に該当する場合には、この法律が適用されてしまうではないか、と思って調べてみた。

公取はちゃんとFAQを用意していた。

これを読むと、下請法規制下でもジャストインタイム生産方式をとれないこともないが、かなり注意深い運用が必要になることが分かる。
加えて、機動的な生産対応は望めないことも分かる。
ここで想定されているのは、規格品が長期にわたって大量生産され、しかもそれが順調に回っている場面である。
けっこう、現代的とはほど遠い。

もちろん現実の取引では複雑な要因が絡んでくるだろうから、言われたらすぐに納品するよう厳しい要求があってもT社との取引をしたいと考える業者がいても不思議ではないし、7&I関係への納入業者が「お宅は日銭稼業なのだから、うちも掛売りはしませんよ」とはなかなか言い難いということもあろうとは想像される。

2009年2月 2日 (月曜日)

普段必要があって見る教科書は、もっぱら商法(会社法)である。
学生時代は、もっとも勉強しなかった科目だったりする。ほかの科目はちゃんと勉強したというわけでもないけど。

で、手元にあるのは、今は江頭憲治郎先生の著である。その前は、前田庸先生のを使っていた。

この教科書であるが、当然のごとく、縦書きである。

けれども、書店の法律書のコーナーに行ってみて、改めて気づいた。
既に、法律の教科書においても、縦書きはマイナーになっていた。

会社法テキストとして前に使っていた前田庸先生のも、ついに11版からは横書きに変わっているようだ。
最近の売れ筋のテキストがどれなのかはよく知らないが、内田民法、山口刑法、すべて当然のように横書きである。

そういえば2001年から裁判所の判決文も横書きになっているのだから、法律の教科書もいつまでも縦書きである必要はないのであろう。
確かに、横書きのほうが、アルファベットや数式には馴染む。

しかし、縦書きから横書きに変わった一番大きな要因は、ライティング・デバイスの変化であろう。
すなわち、昔の大家の先生は原稿用紙かなにかに手で縦書きをすれば、出版社が体裁を考えてくれ、印刷所が活字を拾って組んでくれ、そうして上がってきた校正刷りを直し直し、というやり方でやっていたのだろう。
そのうちワープロが普及してきた。その当時に大家だった人にとっては、おそらくワープロは清書用の道具であった。
けれども、そこで清書を請け負っていたその下の世代の人たちは、自らが文章を書くときにそのままキーボードを打ち込んで書くようになったわけである。
であるからして、現在の教科書は、著者が打ったテキストを出版社はデータで受け取って、それを加工している(に違いあるまい)。

この手のデバイスは、アメリカ生まれであるから、デフォルトは横書きである。
そうして、すべからく教科書が横書きになっているのであろう。
縦書きを使えないではないが、なにかと面倒である。

でも、私が学生の時分、法律の教科書と言えば、すべからく縦書きであった。英米法の教科書はさすがに横書きだったと思うが。
コンメンタリーなど、周辺資料的なものについて横書きの物もあったが、権威ある法学者が教科書の筆をとるといったら、縦書きが当たり前だった。

私の記憶では、この当たり前だった風習に逸早く叛旗を翻したのが、当たり前田の雅英教授だった(変な駄洒落ですみません)。

1988年から翌年にかけて東京大学出版会から出された都立大(当時)教授の前田雅英著『刑法総論講義』『刑法各論講義』は、刑法がまだカタカナで書かれていた時代であるのにかかわらず、横書きで色刷りと図版を駆使した、たいへんに小洒落た感じの教科書なのであった(ただし、講義で使われていたわけではない。生協の書店に誇らしげに積まれていはしたが)。

それに影響を受けているのかどうなのか知らないが、今先端の法律学の教科書で横書きのものは、すべからく前田刑法に似通って見える。

2009年1月26日 (月曜日)

『旬刊商事法務』を自分で買うほど勉強熱心ではないので、しばらくぶりで読んでいる今日この頃。
商事法務が主催するセミナーの案内、つまり自社広告のページがある。その時どきのリーガルなニーズに応じるセミナーがある一方で、年次の恒例となっているセミナーも多い。

このたび、とある題名のセミナーに目がとまる。

法務・総務・審査・経理・営業など 女性社員のためのビジネス法務の基礎知識<東京>

「女性社員」以降の語句のフォントが大きく記されている。

男女雇用機会均等法は1986年に改正・改名・施行された。それから二十数年。

いや、別に、いいんだけれど、このセミナーのアイキャッチの部分は、素直に読めば「女性のための」という部分にあるわけだ。
受講料は、同主催者が行うほかのセミナー同様、1人3万円ほどかかる(6時間・昼食付き)。
ただし、募集の条件に性別の記載はないので、女性でなくとも申し込めるのかも知れないが、そういう人がいるかどうかは知らない。

それにしても、女性特有のビジネス法務の知識とは、いったいどんなものなのか、気になるではないか。

どうやら内容は以下のようなものらしい。

第1 文書に関する法律知識
1 ビジネスにおける文書の必要性
2 文書の作成にかかる基礎知識
(1)作成者
(2)日付、確定日付
(3)作成方法
3 文書の管理・保存にかかる法律知識
(1)文書の管理・保存に対する法律の規定
(2)文書を紛失した場合にとるべき対応
4 印鑑の押し方にかかる法律知識
5 印紙に関する法律知識
6 電磁的記録と文書の違いと、e-文書法の基礎知識
7 契約書に関する法律知識
第2 ビジネス業務と法律のかかわり
1 コンプライアンスとは
2 契約内容と法律の関係(任意規定と強行規定)
3 法律違反をした場合には?
(1)法律に違反した場合の効果
(2)従業員(社員)に対する制裁
(3)会社のために従業員(社員)が行った行為について
4 反社会的勢力が接触してきた場合の対応
5 取締役の善管注意義務違反の効果――代表訴訟とは
(1)時効
(2)強制執行
第3 会社組織に関する法律知識
1 株式会社とは
2 取締役と、従業員(社員)の違い
3 株主と、従業員(社員)の違い
4 株主総会に関する法律知識
5 取締役会、取締役に関する法律知識
6 監査役(会)に関する法律知識
7 内部統制システムに関する法律知識
弟4 近時の法律制定・法律改正のトピックについて

あらためてこれらの基本的な点について体系的な話を聞くのは意義のあることと考えられる。正直、聞いてみたいぞ。
でも、「女性社員のための」と銘打ったセミナーに潜りこむ勇気は出ないのであった。

そもそも、上に羅列された事項に関して、女性特有というポイントがあるのだろうか。

例えば、弟2の4反社会的勢力が接触してきた場合の対応について、男性ならば体を張って戦いなさい、女性ならば迷わず警察に連絡しなさいとか、そんな区別があるとも思えないわけである。

このセミナーはもちろん商売なので、女性社員に対して網羅的なビジネス法務の知識を説いてもらいたいというニーズがあるというマーケティングの結果として、このようなタイトルのセミナーがあっても構いやしないのだけれど。

「リーガルなことについてリーガルな講義をする」というものとしては、いささか違和感を覚える次第。俺だけか?

2009年1月 6日 (火曜日)

岩波基本六法にしてみる。決してマジョリティでないところが不安だ。
しかし、編者のうち神田先生、芝原先生は私に単位を下さった方なので、ご信頼申し上げる次第なわけである。

ポケット六法も昔の小六法くらいの厚みがあるが、商標法が載っていなかったのが、岩波にした理由である。

2008年12月22日 (月曜日)

死後に、周囲の法律的関係に対して自分の意思を及ぼしたいと望むなら、遺言を書いておくほうがよい。
つまり、法定相続割合とは違った形で自分の財産を処分したいとするなら、遺言を書いておく必要がある。
1億円の預金を持った人が、死後に慈善団体に寄付しようとするなら、遺言を書いておいたほうがよい。もっと確実にしたいなら、生前に寄付しておくほうがよいだろうが。

法律的関係だけでなくとも、例えば墓誌にはこう書いて欲しいなどと思うなら、遺言を書いておいたほうが、事実上実現する確度があがるだろう。

ところで私は遺言を書いたことはない。
もっとも残すような財産は何もないので、書くような内容もない。
とは言え、先年手術をする前などは、万一のことを考えたら、遺言を残したほうが法的安定に資することは理解していた。

でも、心情的に、遺言を書くというのはかなり抵抗があるものである。
一番は、言霊信仰(井沢元彦氏の著書など参照)である。
日本人には、言葉に出したことは実現してしまうかも知れないという恐れを抱くという、言霊信仰がある。
大きな手術を前に遺言を書いてしまったら、本当に死んでしまうかも知れないという恐れである。科学的根拠はなにもない。が、心情的にこう思うのは自然ではなかろうか。

もっとも前述したように、残すようなものは何もないので、遺言に書くとしたら、各楽器の行き先くらいである。
・レッチェとアルトは、誰か使ってくれる人に。
・バストランペット(BACH)は、ピストンに寄贈。
・バストランペット(AMATI)は、一緒に火葬。

2008年12月12日 (金曜日)

この国にもいろいろな法律があって、例えば今日はじめて存在を知ったものに「国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律」というのがある。
昭和63年にできた法律のようなので、かれこれ20年は存在していることになる。

法律の内容を一言で述べれば、国会議事堂等や、外国公館等の周辺では、拡声機を使って静穏を破ってはならない、というものである。

曲者なところが2点ある。
1つは、「等」である。
法律を読むと、この等に具体的に含まれるのを想定しているのは、政党事務所である。
国会はともかく、政党事務所が、何故特別扱いできるのだろうか?
もう1つは、拡声機を使ってもいい例外事例が設けられていて、災害など緊急時の対応のためというのは肯けるとして、選挙運動の使用も例外として認められているのである。う~む。

2008年12月10日 (水曜日)

小六法の代わりって、結局みんなどうしているのだろう?

2008年12月 9日 (火曜日)

私は嫌がらせが好きである。

夜、無灯火の自転車がやってくると、見えない振りをして、ぶつかりそうになる直前まで近づく。

信号のない横断歩道で、横断を待つ当方が目に入らないかごとく走行している車がいたら、相手に不意のブレーキを踏ませてでも、横断を敢行する。自転車に乗っているときには、横断歩道ではあえて自転車から降りて押して渡る(*1)。

駐車禁止の道路で駐車している車が、ドアミラーもたたみもせず我が物顔にいたら、通交を邪魔される結果、鞄や腕がミラーに当たってしまうことが多い。ミラーが曲がろうが、そんなことは知らない。こちらの治療費は請求しないでおいてあげよう。

我ながら、酷い人だね。

でも、世の中にはそんな私と違って、人間が大変によくできた方も数多くいらっしゃるので、信号のない横断歩道で止まってくれる車がいたら、こちらも会釈をして速やかに横断しようと思うし、遠慮がちに場所を選んでミラーもたたんで止めてある駐車違反の車のミラーをこじ開けようとまでは考えない。

(*1)自転車を押して歩けば、軽車両でなく歩行者扱いとなり、横断歩道上では圧倒的に優位に立つ。少なくとも、轢かれた場合の補償責任も車側になろう。信号がある横断歩道では、赤信号を無視した歩行者の立場は弱いが、信号がない交差点での歩行者の立場は、法的には限りなく強い。もちろん、事実上実力的にはかなり弱いので、現実には相手を選んで仕掛けることにはなる。

2008年11月11日 (火曜日)

大分県の教員採用試験に関する不正を聞いて思ったことはいくつかあったのだが、その一つに、「何が不正だったのか?」という根本的な疑問がある。

教育委員会の権限とか、教員採用試験および教員資格については無知なのだが、思うにあれは「公務員だから罪に問われている」のだ。
つまり、公立の小中学校の教員採用に関してだから、問題となっているのである。
逆に言えば、私立学校の教員に自分の子女の採用を望んで、理事長に100万円の商品券を贈ったとしても、犯罪にはならないはずだし、社会的に批判される筋合いもないはずである(そんな学校が嫌なら、とっとと通うのをやめればよい)。
つまり、私立学校の教員の採用は、民間企業の採用と一緒であり、基本的には双方の勝手な恣意で決めればよいことなのだと思われる。

一般の企業で、採用試験などはしても、必ずしもその結果だけでなく、取引先からの依頼等の事情を考慮して誰を採用するか決めるというのは、ままある話であろうし、原則として法的問題はない。

ところで、贈賄・収賄の罪の構成要件として、金品の授受がなければならない。刑法上は「賄賂」と書かれているので、必ずしも金銭や品物ではなく、便宜の斡旋でもよいが、何らかの「見返り」が受け渡されることを想定している。
今回の教員採用に関しては、商品券であったようだ。

だから、今回の事件についても、自分の子女を教員にしたかった親で校長をしていた者などは、ただ「うちの娘を、どうかどうかお願いします」と言うだけにすればよかったのである。

2008年10月13日 (月曜日)

いかに日本食ブームとは言え、アメリカで餅を売っているのだろうか?

PL対応が難しいのではあるまいか?

毎年のように報じられる、餅をのどに詰らせて死亡する事件。たぶん、年間で150件ほどある。

こんにゃくゼリーに対しては規制の圧力がかかっても、餅の販売に対してはそのような発想はあまり浮かんでこないのが一般的日本人のメンタリティではなかろうか。自民党では、(おそらくは米国等に倣っての)ゼリーへのこんにゃく使用を禁止する立法を考えているという話もあるが、保守本流を自任するこの政党が、餅の規制には腰が重いのではあるまいか。

冷蔵庫のなかに切り餅の食べ残しが一つだけ発見されたので、注意書きを読んでみる。
手許にあったのは、たいまつ食品(株)という会社の杵つきもちおひとつパックという製品である。たまたまあった物がこれだったというわけで、他意はない。

サイトに掲載されている包装の表面には、注意喚起をする文言は、右隅に「開封後は冷蔵保管」と赤太ゴチックであるだけである。

裏面を見ると、一番上に「ご注意」と赤字白抜で枠が記され、その中に6項目の注意書きがある。

目指す注意書きは、4番目にちゃんと掲載されていた。

調理されたもちを「急いで」お召し上がりになると、手や口内を「やけど」したり、「喉につまらせ」たりしますので、ご注意ください。

フォントの大きさは、表面の「開封後は冷蔵保管」よりもだいぶ小さいが、保険の約款のように読めないほど小さいというものでもなく、普通に読めるサイズである。

ちなみに、6項目の注意書きの最初にあるのは、「調理方法に従って、必ず加熱してお召し上がりください。」というものである。

もちを咽喉に詰まらせないような注意書きをするとしたら、現在なら上の表記で取りたてて難はないと思うけど。

2008年7月 1日 (火曜日)

世界遺産の制度や文化財保護法などは、何を守ろうとしているのであろうか?

あれは遺産を守っているのではない(保護法益は遺産ではない)。

あれは、過去から連綿と続いてきた遺産を守っているわけではなく、そういう物を愛でる現代人の感情(およびそれが生み出す財産的価値)を守っているのであろう。

あくまで現代人のためのものである。貴重な史物を未来に残していくためというのは、詭弁である。未来の人間が何を愛でるのか、そんなことは現代人には分からない。
(古代人が食べ残しを捨てた貝塚のことを考えよ)

世界遺産への落書きが、1000年後には貴重な文化的史跡となるに違いないにかかわらず、非難されるのがそのいい証拠である。

落書きを奨励しているわけではない。
ただ、遺産を守らなきゃとかいう気持は、多分に保守主義の気風の産物であることを言いたかったのである。そして、人間には基本的性向として、この気風はあるのだと思う。

2008年6月 2日 (月曜日)

相撲が日本の国技であることの根拠を調べようと思ったのだが、そもそも論争があるらしい。

少なくとも、法的な根拠があるものではないようだ。下手すると、好き・嫌いのイデオロギー的感覚で、捉えられかねない問題だという臭いがある。
Wikipedia等を眺めるに、もともとは相撲の競技場を作ったときに、現在まで引き継がれる「国技館」という名前をつけられたことにより、国技=相撲の構図が我々の頭にインプットされるようになった、ということらしい。

ただ、日本相撲協会寄付行為財団法人の最も基本となる取り決めを表したもの。紛らわしい言葉遣いだが、財団法人についてはこう言う。会社における「定款」に該当する)を見ると、「わが国固有の国技である相撲道」という表現がなされており、相撲を国技と認識しているであろうと窺われる。

別に、必ずしも法的根拠がなければ国技と認められないと、私は思わない。
日本相撲協会が、自ら相撲を国技と認めることも、それはそれで相撲が国技である根拠となり得る。あまり世間の賛同を得られないようだと、自称国技と揶揄されかねないが。

なお、私がこのようなことを調べたのは、「相撲は国技ではない!」と主張するためでも、「相撲は国技に決まってるじゃねえか」と主張するためでも、そのどちらでもない。
単純に、国技と言われているけど、どうして(どのような経緯で)そうなったのかな?とふと思っただけである。

2008年5月29日 (木曜日)

廃業を決めた高級料亭(船場吉兆)は、大阪で私が行ったことのある数少ない場所のすぐ近くだったのね。ふうん。

企業防衛におけるマスコミ対応の重要性は以前から言われている。経営陣相手に、マスコミ対応術を指南するサービスを展開する代理店等もあるやに聞く。
今回の例は、世間一般の評価としては、この1年では最も拙かった対応の例として挙げられるのだろう。

個人的には、食べ残しをほかの客に回しても、質が変わらない(衛生面や味の面などで)ことを保証できるのであれば、自分に出されても気にしないが、いくらきれいであっても、床に落としたものを出されたらたまらないと思う人であれば、気になるのだろうな。個人的には、3秒ルールではないが、床に落としたものであっても、質が変わらないことを保証できるのであれば、自分に出されても構わないと考えている。
ただ、この保証できるというのは、実際には難しいのではなかろうか。食べ残しに無味無臭の猛毒が振りかけられていないとも限らない。

さて、もう廃業ということなので、今後どうということもないのかも知れないが、会見を見た私の第一印象は、「ずいぶんとイイところを会見会場にしたものだな」ということだった。
大阪市中央区のホテルだということだが、どこのホテルかは解らなかった。ただし、相応の使用料はかかるところだと思う。
数億円の負債を抱えて破産というわけだから、あまり晴れがましい場所でやるような話ではないと思うのだけれど、もうお終いだからいいのか。債権者も銀行が主なようだから、会見を開いたホテルが銀行の得意先とかだったら、債権者筋も文句はないということだろうか。と言うか、金額的にもう誤差の範囲なのだろうけど。

廃業の理由は、「使い回しの発覚でキャンセルが相次いで」ということになっているが、実際には、銀行筋がもう見切りをつけたということではなかろうか。で、弁護士もそれに賛同したと。推測だが。

企業不祥事は、1度目は大問題になっても許されるが、2度目があるともう許されない、というのが近年の事例を見ていて感じることである。雪印食品とか。

これってもしかして、手形の不渡りが2回目になると銀行取引停止になって、世間的には倒産と認識されるのと軌を一にしているのではなかろうか。

この1年のマスコミ対応の最拙例として挙げたが、逆にマスコミ対応の上手かった例としては、イージス艦衝突事件における新勝浦漁協組合長の外記氏が挙げられるのではなかろうか。

失礼ながら、外記氏がマスコミ対応訓練を受けたとは思われないのだが、見事な応対であった。
事実関係はどうあれ、事件の性質上、マスコミが被害者側に同情的になるのは差し引いたとしても、お涙ちょうだいに堕することのない理性的な姿勢は、世論の共感を得て、自衛隊悪しのストーリーを描くマスコミが報道しやすいものであった。見方が変われば、(北朝鮮から)国の民を守る自衛艦を、ちょろちょろと航行していた漁船が邪魔をした、というようにも捉えられる可能性はあったと思う。
外記氏の応対の優れたところは、自衛隊を鋭く非難しつつも、その顔をつぶさなかったという点であろう。それが、かえって氏の言に対する信を高める効果を発したのだと思う。

おそらく、そういうバランス感覚は、付け焼刃的なマスコミ対応訓練で身に付くものではなかろう。

2008年5月23日 (金曜日)

家に置ききれない物を貸倉庫に預かってもらうという場合、倉庫代がかかる。
今、家に置ききれない物はたくさんあるのだが、倉庫を借りているわけではない。

現金についても同じように考える私は、(定期)預金が金融商品であるとは考えにくい。
物を預けて安全に保管してもらえば、相応の保管料がかかるのと同様、現金を預けているのだから、手数料を取られて然るべき、とも思っている。

銀行に貸金庫を借りて、そこに現金を保管しておくのなら、それは使用料がかかるのにかかわらず、定期預金という契約にして預けると、利息がつく。

事実上のリスクは、変わらないんじゃない?

数億円も預けるというなら、また考え方も変わるが、1千万円くらいであれば、保管しておいて毀損するリスクというのは、定期預金も貸金庫もたいして変わらないだろう、現代日本なら。

銀行がバタバタと潰れる時代なら分からないが----銀行が潰れた場合、定期預金は減っちゃう可能性があるが、貸金庫に保管しておいた物は全部確保できる、はず----そのような混乱した時代なら貨幣価値は乱高下することも予想され、そういう状況では現物を身近に保持しておくことが流行るのではなかろうか。

2008年4月29日 (火曜日)

(承前)

裁判員制度には、そもそも裁判員になれない人というのがあって、事件関係者などがなれないのは首肯されるわけだが、職業的になれない人も定められている。

これがどうにも合点がいかない。

国会議員、大臣、幹部国家公務員、警察、自衛官、知事、市長村長、司法関係者(裁判官、検察官、弁護士、弁理士、司法書士、公証人、裁判所職員、法務省職員、司法修習生、法律学の教授・准教授など)がそれに当たるとされる。
言い方を変えれば、この人たちは裁判員にならなくてもよい。

最初に見たとき、特権階級として義務を免除されているように読めたものである。

理由の一つに、三権分立との抵触を避けるということがあるようで、なるほど司法府の判断に行政や立法関係者が直接立ち入るというのは問題があるという恐れはあろう。また、裁判に国民の社会常識を反映させるという裁判員制度の趣旨に沿うためという理由もあるらしく、裁判の当事者として直接法廷に立つ裁判官、検察官、弁護士ばかりか、そうでもない弁理士や司法書士、裁判所職員、法律学の教授など、法律に詳しい者が排除されているのはそういう理由によるらしい。

やはり人をバカにした制度に思える。
まず、後者の理由に対してだが、法律の専門家であっても国民の一人であろう。国民の義務というのなら、たまたま裁判員に選ばれたって構わないと思うし、そういう人たちの社会常識だって国民の社会常識のうちではないのか。
前者の理由に対しても、裁判官や幹部国家公務員にだって選挙権はあるわけで、三権分立というのは、三権それぞれが相手にまったくタッチしないということとはイコールではない。
そもそも本当の趣旨は国民の司法参加にあるはずで、そうだとしたら、その事件限りに裁判員という立場で一国民としての判断をするという「義務」を果たすべきなのは、上記の者だって変わらないはずだ。

例えば総理大臣が裁判員として判断をした場合、それはちょっとインパクトが強すぎてその事件の裁判に影響があり過ぎる、というのなら分からないでもない。
警察官が裁判員になったら最初から被告はクロだという先入観が働くだろう、という論があるかも知れないが、それらの人たちは、事件関係者か否かで判断して排除するかどうかを決めればよいと考える。当該事件の捜査に当たった警察官を選ぶべきではないというのは理解できる。そうでなくても、例えば警官殺しの被疑者の裁判なら警察官を裁判員に選ぶのは不適当だ、という意見があるかも知れない。私は事件関係者でない警官なら理論的には不適当とは言えないと考えるが、そう思わない場合でも、被疑者の弁護人が忌避すればよいだけの話だと思う。
自衛官の場合はどうしてダメなのだろう?
いずれにしろ国民の義務というのであれば、理論的に上述の者を排除する理由は薄いと思う。もちろん、その事件の裁判官が同時に裁判員になるというのはマズいので、その場合排除する必要があるが、事件関係者ということで排除すれば足りるのではなかろうか。

何か、おかしな制度という感が否めない。

(了)

2008年4月28日 (月曜日)

(承前)

西野喜一著『裁判員制度の正体』(講談社現代新書)は、裁判員制度に反対する立場から、もし裁判員に選ばれたらどのようにしてそれから逃げればよいか、そのノウハウを教えるという、とても元裁判官が書いたとは思えない一見背徳的な作りとなっている。

来年以降、もし裁判員に選ばれてもそんなのやりたくないと思っている人がいたとしたら、同書を読めば参考になるかも知れない。

裁判員をやりたくない理由として考えられるのは、前日述べた「そんな暇ない」ということのほかに、「人を裁くのは嫌だ」とか「死刑を決めることなど私にはできない」という信条的なことも大きいと思われる。「適切な判断ができるか自信がない」ということもあろう。「凶悪事件なんかと関わりたくはない。犯人と顔を合わせるなんてまっぴらだ」という心情的な理由もあろう。暴力団などの組織を背景にした事件なんかの場合、セキュリティ面でも心配に思うのは不思議ではなかろう。執拗な性格の犯人が、何年も後に出所してきてから裁判員に逆恨みをはらすことだって、考えられないことではない。

今のところ私が考えている対応策はこうである。
これは別にテクニック的なことをいろいろ考えてこうなったというわけでなく、自分が裁判員に選ばれたらということを想像したときに、率直に考えることからのものである。

「守秘義務を果たす自信がありません」

まず、こう言うと思う。

裁判所に出頭するように要請するハガキが来た時点で(ハガキか封書か知らないけれど、ある日ポストにこれがはいっているというのが、裁判員制度のイメージである)、そのようなハガキが自分に来たことをこのページに書くであろう。
そして、そのあとの裁判所での様子などについても、たぶんめったにない経験なので、感じたことを書くであろう。
いざ、裁判員として審理が始まったとしたら、それはたぶん興味深いことなので、どうしたって書いてしまうだろう。

だから最初にこう宣言したいのだ。知らなければ、秘密を漏らす心配はない。一生涯、裁判員をしたときの経験を誰にも明かさないという自信は、私にはない。

「だから今後出頭しません」

正当な理由なく応じないと、10万円の過料を課されることがある。
10万円払っても、一生の守秘義務からの解放の方を取るな、私なら。

なおこの10万円だが、10万円ならさっさと払って拒否するという人がかなり出てくると予想される。
会社の経営者だとか、自分が重要人物だと思っている人なんかだったら、会社に10万円払わせて経理の担当者の頭を悩ませるなんてことだって起きそうだ。
その逆に、10万円を払わされて行政訴訟を起こす人だって出てくるだろう。弁護士費用が100万円かかっても争う人だって出てくるだろう。それほど戦いやすい素材だ。

(続く)

2008年4月27日 (日曜日)

裁判員制度は来年から実施されるようだが、こんなものやりたくないと思っている人も多いそうだ。

理由はさまざまだろうが、端的には「そんな暇ない」というのが多かろう。
いくら民主主義を守るための国民の義務だと言われたとしても、選挙に行って候補者の名を書いてポイッと投票するのと比べ、裁判所に何度も通って資料を読んだり話を聞いたりし、(法的に)合理性のある思考を重ねて結論を出さなければならない。どう考えても手間は選挙の比ではない。毎回ものすごく真面目に各候補者・政党の話を聞いてマニュフェストを検討し投票に臨む理想的な有権者であっても、ひとたび裁判員になったら、その費やす手間は一生分の選挙に費やす手間の合計よりも重いのではなかろうか。

もし裁判員に選ばれたら「そんな暇ありません」という理由で辞退をする人は続出するはずで、そのために予めどのようなケースならそれを認めましょうなどとガイドラインを作ったりしている模様だ。ガイドラインでは、代替性つまり「その仕事はその人がいないとできないのか」という点で判断をするらしい。

しかしこれはかなり人をバカにした話だと思う。すべての仕事はその人でないとダメであるし、すべての仕事はその人がいなくたって構わない。つまりは本人の気持ちの持ち様の話だ。裁判所が外形的に判断することではない。日銀の総裁が空席になっていたって、一般国民に何か支障があっただろうか。

例えば、スーパーでレジを打っているLさんが裁判員に当たったとしてみよう。
おそらく今の基準では、Lさんの仕事は代替が効くとされ、それを理由に裁判員を辞退することはできないと判断されるだろう。
しかし、職場ではLさんは新人のパートさんの相談相手になっていて、ちょっと癖のある4番カウンターのレジ機はLさんでないとなかなか起動しなくて、何より会計の際Lさんがちょっとした話し相手になってあげているおばあさんの客がLさんがいないととたんに不機嫌になってほかの店員にクレームをつけたがる、というような状況であったとする。そりゃLさんがいなくてもそのスーパーの営業はできるだろうけれども、「Lさんでなければ」という仕事がないとは考えられない。

特にそれはLさんがそう思っていることが大切で、そういうことが仕事のモチベーションにつながっていると思う。
確かに世の中には「これはオレでないとダメなんだ」と本人は思い込んでいても、周囲からすると「別に誰でもいいんだけれども」という状況は数多くある。入札を嫌って随意契約にしたがる輩などもそういう勘違い野郎であろう。
しかし、本人が「これはオレでなければ」と思っていることがモチベーションにつながるのであって、周囲もそれを分かっているからこそ「やっぱりやる気があるのが一番」などと言って任せるわけである。
少なくても戦後日本の経済社会が上手くいったと言うなら、どのような仕事でも大なり小なりそのような気持ちを大切にする雰囲気があったからこそ、勤勉な日本人と言われる状況があったのだと思う。だからこそ、「別にきみでなくてもいいんだよ」という言葉が決定的な叱責・否定の意味をもって心に突き刺さるのだ。

裁判所が、裁判員を選ぶという目的で、代替性を判断するのはおかしいと思う。事件という、判断すべき事柄が山積しているものに加えて、またまた判断する事項を増やすのはバカげた話ではなかろうか。

裁判員制度に関して、そのようなことを書こうと思ったわけではなかった。
裁判員に選ばれたら、私はこういう風に対応するつもりだというのを書こうとしていたのである。

長くなったので明日にまわす。

(続く)

2008年4月24日 (木曜日)

最近このような台詞がはびこっている。

「人を殺せば死刑になれると思った」

そのように自暴自棄に陥る理由についてはいろいろあるのだろうが、それで殺されてしまった見ず知らずの人は気の毒である。どのくらい気の毒かというと、無過失なのに交通事故死してしまった人と同じくらい気の毒である(*1)。

死刑になりたくて重罪を犯すというケースを見ると、放火のような犯罪は多数の人の生命や財産を奪う可能性があり、「死刑になりたくて火をつけた」という人があまり現れていないようで、それは幸いである(*2)。
放火は危険性が高く重罰が課される犯罪である。条文上は死刑もあり得るのだが、放火犯は面白半分で火をつけることも多く死刑になるかも知れないと考えている様子があまりないように見えるのは、気のせいか。

もし死刑になりたくて犯罪をするというのなら、死刑しか法定されていない罪はどうであろう。
と、犯罪をそそのかすような不道徳的なことをいうのは問題があるわな。しかも、話の内容としては非国民的なことになるのである。

しかし、刑法にはそのような罪が一応書かれている。ただ、そのような罪を犯し、実際の事件になることはない。刑法の教科書では、殺人罪などと比べてほんのおざなりにしかページを割かれることはない罪である。

それは、外患誘致罪(刑法81条)。

外国と通謀して日本国に対し武力を行使させるという罪である。

実際問題一般市民がそんなことできるわけねーだろ、という気もするが、隣の国のミサイルが頭上を通過していくこともあるし、安全保障条約を結んでいるとは言え強大な武力を日本の地に置いている国もあるわけである。今の世なら、ハッカー的な手口を使えば、あるいは何かできるかも知れない。

いずれにしろ理論的には、この罪を犯したと認められれば、たとえ一人も死んでいなくても、死刑判決を受けることができる。

(*1) 見ず知らずの殺人者に殺されてしまう方が、交通事故死するよりも無念なのではないかと感じる向きもあるかも知れないが、気の毒度は同じであろう。交通事故に遭う人も、たいていの場合予想もしない時に見ず知らずの車に轢かれるのではなかろうか。

(*2) 放火罪については、特に人がいる建物に火をつけた場合には、現住建造物放火罪として、みんな逃げ出して誰も死ななかったとしても、条文上は犯人は死刑に処される可能性がある(量刑についての判例は知らない)。

2008年3月18日 (火曜日)

道交法の改正で、車の後部座席のシートベルトが義務化されるとのことである。

運転席にヘッドレストすら付いていなかった時代からすると隔世の感があるが(何時だ?)、このような規制に対して、次のような議論がある。チャイルドシートが義務化されたことに関しても、同じような議論があるようだ。

「(シートベルトやチャイルドシートは)運転者やその同乗者の安全のためにするものであって、それは外から強制するものではない。他人に迷惑をかけるものではないのだから、このようなことを法律で規制するのは反対だ。こんな規制をするから、日本は民度が低い。」

しかし、私が思うに後席シートベルトに反対するとしたら、その真の理由はこうであるはずだ。

「面倒臭い。窮屈だ。」

これに対して、理屈をつけると前述のような理由付けになるのだと思う。

しかし、私が考えるには、この理屈の「他人に迷惑をかけるものではない」というところが問題である。
私は、「迷惑をかける」ことになるのだと思う。
ただ、その迷惑は、間接的なものである。
事故の際、シートベルトをしていない方が死亡率が高く、被害が大きいということだ。だからシートベルトをしろというのである。
シートベルトが面倒だからしない、規制には反対だ、と主張する人は、事故にあったとき重篤な結果になったとしても、それは自己責任だから、と言うと思われる。
しかし、このことは間接的に他人に迷惑をかける。

例:Aという人が過失で事故を起こしてしまい、相手Bの車の後席に乗っていた子供を死なせてしまった。Bの子供はチャイルドシートやシートベルトをしていなかった。

この場合、Aが100%悪かったとしても、BはAに対して迷惑をかけていることになると、私は思う。それは、法規を守っていれば、子供は死にはせず、AがBに負う賠償がもっと少なくて済んだはずだから、という意味でである。ぜんぜん勉強していないが、この辺はすでに判例がいろいろとあるのではなかろうか。今度、義務化されたことによって、例示したケースのAの賠償責任が、B側がシートベルトをしていたか否かによって、変わってくるという事態も考えられるが、それよりなにより、もしかしたら、Aはいつもは慎重な運転をしていたのに、たまたまその時だけ何か同情すべき理由があって過失を犯してしまったのかも知れず、その場合、Bが法規を守ってさえいれば、Aがその後「事故で子供を死なせてしまった」という呵責を負わなくてもよかったかも知れないと言える。

それに、事故が起きた場合、救急車がやってきて、救急医療をして…と医療費が投入されるわけである。
シートベルトをしていれば、それがなかったかも知れない、とは言える。
(ただし、たいへんに非人間的なことを言うと、事故で負傷して生存する場合と、死亡する場合とで、どちらが医療費がかかるかについては、一概には言えないと考えられる。死亡した方が少なくてすむ場合もあるだろう。)

このような迷惑と、面倒さ・窮屈さを照らし合わせて考量し、迷惑の方が大きいということになったので、法制化されたということなのであろう。
ところで、民度って何だ?

2008年3月 1日 (土曜日)

世界にはいろいろな国がある。最近初めて存在を知った変な(失礼)国に、サンマリノ共和国がある。面積は約60k㎡、人口約3万人。それだけをとれば、私の実家のある須坂市より小規模である。
そして、この国がなんとイタリアの山中に忽然と存在するらしいのだ。

いや、それなら驚くには値しないか。あそこにはかの有名なヴァチカン市国がある。面積も人数ももっと少ない。そういう皇居よりも小さい国がローマ市内に存在する。世界一小さい国として有名な、それ。しかし、あれはカトリック教会の法王がいるという特殊な権威があって成り立っているのだと思われる。

同じような国が、まだイタリアの中にあるとは知らなかった。
このサンマリノ共和国は、長い歴史的経緯から、独立した国家として認められているらしい。国連にも加盟している(ちなみにヴァチカン市国は国連加盟国ではない)。
あまりに小規模なので、軍隊というものを独自に持ってはいないようで(ちなみにヴァチカン市国にはスイス軍が派遣されているという記述を“Da Vinci Code”で読んだ)、当然のことながら、経済等はイタリアと密接な関係にある。政治面ではもちろん国会がある。人口3万人の国だから日本の市議会のような規模と想像されるが、比例代表制を採用しているらしい。想像するに、「市民ネット○○」とか、「みどりの風」とか、「民主社会連合」とか、そういう「政党」をわざわざ作って選挙に臨むわけだ(以上、政党名はすべて仮名)。3万人なのに。何となくその辺に、我々と欧米との間の、議会制民主主義に対する歴史の違いを感じる。

2008年2月21日 (木曜日)

コソボ自治区が独立を宣言した。
バルカン情勢の長い歴史的動向、最近のユーゴ情勢などについてはまったく不勉強なので、はなはだ無責任な記述になるが、もし日本に当てはめたら次のような状況になるのでは、というのを想像してみた。

沖縄が独立を宣言した。
日本政府は認めていないが、中国や韓国をはじめ、東南アジア諸国も独立宣言を支持している。独自の歴史と文化を有する沖縄の意向を尊重する構えだが、アジアに対する日本の影響力の牽制になるという利益考量があろう。ロシアももちろん独立支持である。
しかし、日本政府には強い味方がいた。アメリカだ。アメリカはこの独立を認めることはできないと真っ向から反対を表明している。強力なリーダーシップを発揮し、独立宣言を指導した平良民儀(たいら・たみよし----仮名)の独裁であると非難するのであった。しかし本当の理由は、もともとこの独立が、米軍基地問題に関する不満に端を発した市民運動から発展したもので、真っ向から米国軍の存在に反対するからである。米軍にとって沖縄は重要な拠点であり、これを手放すわけにはいかないのである……

う〜ん、想像に無理があるか。
もし沖縄が独立したいと思ったとして、その他の国民がそれに強く反対するだろうか? という疑問があるのであった。
これが、「京都が独立宣言する」という事態が起きたら、反対する人たちは多いかも知れない。
東京都あたりが、今の都知事が煽動して「国は何もしてくれないから」と独立宣言をしたなら、私は止めないけど。

2008年1月29日 (火曜日)

古紙偽装問題についてであるが、問題が発覚した経緯や、その後の対応、特に業界内での姿勢の位置関係がどうなっているかは不明だが、いずれにしろ、良く言えば「歴史と伝統」、悪く言えばの「古くさい因習」の業界、つまりは異様に統制が取れている業界だとあらためて感じる。1月18日付けの各社のリリースを見れば分かるが、各社とも同じことが書いてあるわけだ。添付してある表のフォーマットを見れば一目瞭然。ただし、この統制が取れた状態にあることを、どれくらい本心から望んでいるかについては、各社で濃淡があるだろうが。

ここから先には、自分が今後この問題を考えるための試験的私見を箇条書きにする。他人には意味不明。
■リサイクルには相当のコストがかかる。PETボトルなど、1本再生するために3.5本分の石油を使うという本末転倒的状況になっているという噂もある。理解を地道に求めていくべきところ、販売競争に押され、いつしかイメージ戦略が先行。
■一度コストを投入すると、今度は無理をしてでもそれを何とか回収しようとする。「ここまで来たんだから、今さら引き返せない」という言い分。一見正しそうだが、たいていの場合実は論理的でない。
■始まりは多分、品揃えの充実の一環。何かいいキャッチコピーはできないだろうか、というようなノリで考えていたのだと思う。広告代理店の人は得意だろうが、当業界はそうでもなかろう。最初は売れなかったはず。格差つけてたから。
■某工場の場合には、この製品は古紙配合何パーセントというのにこだわらず、禁忌品以外はどんな製品にも少しずつ古紙を配合していくというのが、最も「エコロジカル」な結果となる。
■グリーン購入法……これさぁ…、 思えば同じような法律ってある。容器リサイクル法とか。多分家電リサイクル法とかも同じような問題があるはず。
■どこで引き返せたか。でも、今引き返すって決めたのだものね。
■今を遡ること15年にもなろうか。例えばその月、両アートの四六T<76.5>の要望が400Rで、同REが30Rだったとする。要望出す方は、変な在庫残したくないから、一般銘柄でないものはギリギリしか要望しないわな。そんなとき、別のボックスを作って30Rを組み込むかって、そんなことはしなかった。同じトリミングで取り合わせてた。やはりそれはまずかろうというときに取る対策は、年に1回REを400R作って置いておくことだ。このようにオペレーションの面でもカバーの方法はあるが、やはりコストがかかる。倉庫代だってタダではない。ただし、この対応はかなり良心的だと自負する。
■それで思い出しちゃった。営業のときあるお客様にバカ正直に「弊社では出来ません」という意味のことを申し上げたことがある。お客様からは「それなら他に変えるけど、いいんだな」と言われたので、心の底から申し訳なさそうに「いたし方ありません」と答えたつもりなのだが、言い方が悪かったのだろうか、ものすごーーーーーーーーーーーーーーく怒られた。今思えばそれは、その担当をされていた方の顔を潰すことになる対応だったのだろう。もっと老獪で懐の深い営業マンだったら、だましだまし穏やかかつ商売につなげる着地点に落ち着かせたのかも知れない。なにぶん若い私にはそのような技はなく、というか、そのような機微を察することもできなかった。何でこんなに怒られなきゃいけないんだろうと思った。今ならそれほど怒った事情は察せられるのであるが、それでもそういう状況で、白黒塗り混ぜたような大人の対応はできない。とにかく相手の方をいたく怒らせてしまったのであった。かように、営業の現場では、出来ないことを断るのも難しい場合がある。

2008年1月26日 (土曜日)

古紙偽装問題に関しては、自身インサイダーの面もあるので、言い難いのはやまやまなのだが、技術が云々とか、中国への輸出が増えて入手が困難云々とかはしょうもない言い訳であって、やはり問題の核心は「嘘ついてました。ごめんなさい」という点であろう。
最近の状況は知らないのだが、この件に関しては、私も従業員の一人として結果的に偽装(ああ、日本語の使い方が変な気がするが…しかし甘んじて受けねばならない)の片棒を担いでいたことは否めないわけである。なにしろ心当たりがある。
ここで謝罪しても仕方ないだろうが、謝らせていただく。


嘘ついてました。申し訳ございません。

2007年12月 3日 (月曜日)

企業不祥事のお詫び、製品の不具合や商品回収のお知らせなどは、新聞では社会面の下のスペースに掲載されるのが標準的スタイルのようだ。
多分今の時代、用意のいい企業広報なら、これが起きたらこれというふうにあらかじめお詫び広告の準備をしているだろうし、社名と日付と商品名を入れさえすればいいような肌理の細かいひな型も、そう苦労なく見つかるだろう。
かなり重大な事態なら、近年の総合家電メーカーM社の対応事例がとても参考になるだろう。

しかし、あの手のお知らせを見ていて、いつも不思議に思うことがある。もしかしたら不思議に思う自分の感覚がおかしいのかも知れない。または、該当しない事例は多くあるのに、見落としているのかも知れない。

何が不思議かというと、お詫びとかそういうお知らせには、その企業のロゴが使われていないという点である

上場しているような企業ならば、統一したロゴやマーク(社章など)を決めて使っていることがほとんどではなかろうか。それらは商品や名刺、看板や広告、HPやCMなどに使用され、その企業を周知するべく大衆に向けてアピールしている。ブランドのシンボルであり、いわゆるCIというやつである。
おかげで、大衆である我々は、いつの間にかロゴやマークとともにその企業を認知している。また、よく知られているのが、略称や通称であることもままある。

例として自動車会社で考えてみよう。
例えばH社の場合。えーと、二輪もやっているH社の方ね。一般にはHンダとして知られているわけである。車の前につけられたHを四角で囲んだマークを思い浮かべる人も多かろう。CM、広告などでパッと見て目にはいるのは、ローマ字でHンダと綴ったロゴや四角にHのマークであるはずだ。
それが新聞にお詫び広告を出す場合、ロゴやHのマークを使うことなく、明朝体かゴシック体の地味な活字で「H田技研工業株式会社」とだけ書かれる。
何というか、これだとちょっと見つけにくいというか、一見Hンダだは思わないかもというおそれがある。
Sバルで考えると、F士重工業株式会社。やっぱり星がキラキラまたたくあのマークがないとピンと来ない。
(今、自動車会社2社で例を作ってみたが、実際にこの2社がどのようにしているか確かめたわけではない。例示のため、広く人々に知れ渡っている企業を選ばせてもらったということで、ご理解願えればと思う。実際と違っていたらごめんなさい)

お詫びやお知らせの内容にもよるだろうが、製品の危険性の通知や回収の周知のような場合、パッと関係者の目を引きつけて読んでもらうためには、人々に馴染んでいるいつものロゴやマークを使った方がよいと思う。

あの手のお知らせのひな型は、最初どこから持って来たか知らないが、社葬のお知らせ辺りから取ったのではあるまいか。そういうのは派手派手しくなるのを避けるためか、ロゴを使わないのが一般的のようだ。
お詫びだから派手派手しくならないように。
これがロゴを使わない理由の公式見解かも知れない。
Pコちゃんが出てきたらF二屋だと直ぐ分かるわけだが、F二屋の謝罪広告にPコちゃんがペコリと頭を下げているイラストが添えてあったら、やはりふざけていると思う人が多いかも知れない。

しかしお詫び広告は地味にするのがスタンダードだとしたら、それを出す企業は内心ラッキーと思ったかも知れない。なにしろ企業にとっては不名誉な広告である。本心ではあまり見てもらいたくはないと思っている。
こういう広告を出す担当の社内での立場も推測される。
下手にロゴなど使ったりしたら、営業部門から取引先にさんざん言われたなどと文句が来るかもしれない。
営業からならまだいい。「どうしてロゴなんか使ったんだ? 目立って仕方ないじゃないか。ほかはそんなところないぞ」とその日の朝新聞を見た重役が言って来るかも知れない。なにしろ昨今この手の広告は多いのだ。たくさん並んでいる中で、自社の謝罪広告だけ馴染みのロゴを使っていたら目立つ。
周到な担当が最終のゲラ刷りに注記を加えて稟議を回し認許を得ていたとしても、そしてその重役も稟議書に判子を押していたとしても、この日の朝にクレームが来ることは考えられないことではない。

何のために企業はこのようなお詫び広告を出すのか?
文面からは、例えば消費者の安全のためなどと考えられるわけだ。
しかし、企業のアリバイ作りの面は否めまい。文面を見たら、おおよそ解ってしまう気はするけど。

2007年11月30日 (金曜日)

融通の利かないことをお役所仕事と言って批判する人たちは、某もとい防前次官を非難する資格はないと思う。
防前次官が非難されるべきは、接待を受けたことではなくて、融通を利かせたことにある。だから、本人はこの点をかたくなに否定するのである。

接待なんぞいくら受けたって本当は構わないのだ。ただ、普通は、接待に限らず何かいいことをしてもらえば、情とか引け目とか更なるいいことの期待とかを感じて、相手に見返りを与えてしまうだろうと多くの人は考えるので、公的立場にある者は接待を受けたりしてはいけないとされている。
いくら接待を受けようが、それをまったく無視して判断できる氷の意志があれば、それが公の立場の人の鑑である。こういう資質を試験できるなら、公務員試験ではぜひそれを試すべきだろう。

融通を利かせてくれてもいいのに、と人が思うとき、それは得てして多少の不公平や不公正を[私のために]認めろと要求していることになる場合が多い。

1分過ぎただけなのにもう窓口を開けてくれない。

融通を利かせて受け付けてあげたことによって、窓口の人は5分業務が延びた。その日の受け付けにしてしまったため、その日中に次のプロセスまで回しておかなければならない。次の業務の人は10分押しとなり帰宅のバスはいつもより20分遅いのになった。この人には幼児がおり保育園の迎えがその分遅れ延長保育料が発生した。

規則を曲げ、融通を利かせると、たしかにその分の効能はあるのだろうが、デメリットもあるはずである。
融通が利かないと不満に思う人は、このデメリットに鈍感であろう。
また、公平ということにあまり価値を置かないと思われる。そのわりに、自分が不公平に扱われたと思った場合、人一倍文句を言うような気はする。

まあ価値観は人それぞれなので好きにしてくれていいのだが、お役所仕事は融通を利かせてはいけないのである。

2007年11月 6日 (火曜日)

二大政党制が日本にふさわしいかどうかは議論の余地があると思うのだが、それは措いておいて、仮に近い将来国政が二大政党制になるとしたら、おおよそ次のような流れになるのではなかろうか。

(1)解散総選挙。民主党が衆院選で勝つ、もしくはそれに近いところまで行き、与野党逆転。こうなる過程で、さまざまな連立、政党再編、与党のスキャンダルなどがあるかも知れない。いずれにしろ、一種のお祭りムードのなかで、民主党(を中心とした)政権が勢いで成立。

(2)成立当初は盛り上がるが、そのうちいくつかの綻びが出てくる。世論はやっぱり自民党じゃないというような反動に傾いてくる。で、総選挙。自民党が勝って、再び政権交代。

(3)しかし、反動で成立した自民党政治では、その時期には新たな価値観をすべて取り込むことはすでに出来なくなっていた。民主党(という名も変わっているやも知れん)も均衡した勢力を保つ。
この時点で、二大政党制になったと言えるだろう。

(4)そのころには、社民党などは民主党に組み込まれているのではなかろうか。唯一、少数政党として一定の議席を守っているのは共産党。

つまり思うに、二大政党制になるのであれば、勢いで一回自民党でない単独(に近い)政権が成立し、何度かのゆり戻しを経て、本当にその態勢になっていくのではないか、ということである。

上の(1)(2)あたりを想像するに、その期間だけでも民主党の代表としてO沢氏がリーダーシップを発揮し続けているであろうかと考えると、?と思う人も多かろうと思うわけだ。

2007年10月18日 (木曜日)

裁判員制度でもっとも違和感があるのは、守秘義務についてである。

裁判員制度では、プロの裁判官は3名、裁判員が6名で法廷が構成され、一つの事件を扱うことになっている。

研究していないのでよく分からないのだが、善良な市民が誠意をもって、被告をどう裁くか考えるということを求められた場合、普通次のようになるのではなかろうか。

裁判所に集められ、裁判員となることになった人は、その後何度か公判や評議などで顔を会わせるわけだ。すると、こうなるのではないか?
例えば、ちょっと面倒な評議が終わった後など。

裁判所を出た裁判員の黒川典昭(仮名)は、駅行きのバスを待っていた。そこに、後ろからちょっと年配の男が来た。中山幹生(仮名)、同じく裁判員になっている。
「ああ、どうも。あなたも駅までですか?」
「ええ。うちは××なもので」
「××にお住まいでしたか。私は、○○です」
「そうですか」
バスが来た。ふたりは一緒に乗り込み、駅で降りた。
「ずいぶんと日が長くなりなりましたね。まだ明るいですな」
「そうですね・・・・。どうです、ちょっと一杯?」
「ええ、いいですね。今日は暑かったですものね」
こうして、駅前の居酒屋に入ったふたり。
最初は、当たり障りない世間話をし、お互いの仕事や家族のことを話したりしていたが、ジョッキを空け焼酎に移ったころには、話は自然と担当している裁判のことになる。

だろ?

仕事でもないのに集められて、密度の高い合議をすることになった場合、一般的な日本人なら仲間意識が芽生え、このような展開になるのではあるまいか。

裁判官と見解の相違があるようなデリケートなケースの場合には、酒の勢いで裁判官の名前や批判を居酒屋でぶちまけることだって、考えられないことではない。

まあ、上の例は壮年男子同士という想定なのでこのような展開になった。例えば、78歳のおばあさんと26歳のフリーター(男)であったら、違う展開かも知れない。

でも、日本人はやはり相談して決めるという習性があるのではなかろうか。
相談して、「この辺がみんなが納得する結論だろう」ということを見極めて、ということである。

守秘義務は生涯負うことになっているのだが、果たして意識しきれるのであろうか。

2007年9月 5日 (水曜日)

(続き)

アンサンブル団体では不要な監査が、オケではあってもよいというこの違いは、次のようなケースを想定しても分かるかも知れない。(*1)

あるバンドがあった。ボーカルのリュウヘイ、ギターのヤスオ、ベースのテッチン、ドラムのタイチの4人組である。
リーダーはもちろんボーカルのリュウヘイ。会計というのは特に決めていなかったが、スタジオ代の支払いやらの取りまとめは、いつもベースのテッチンが行っていた。
あるときバンドはCDを自主制作することになって、その費用を4人が出し合うことになった。みんなバイト代をつぎ込んだ。取りまとめはテッチンが行った。レコーディングもした。しかしCDは出来なかった。みんながテッチンに訊くと、制作を依頼した先が潰れて夜逃げしたという。みんなは一旦あきらめた。
ところが後日、実はテッチンがみんなから集めた制作費を横領していたことが分かった。

このケースでは、この後バンドがたどる途は、次の3パターンが予想される。
(1)みんなでテッチンに金を返せと迫り、一緒にセッションなど続けられるはずもなく、解散。
(2)テッチンを首にして、新しいベーシストを探す。その場合、他のバンド仲間にも当然話は伝わる。「あそこのベースはテッチンってヤツだったろ。どうしたんだ?」「何か、金でもめたらしいよ」
(3)テッチンがみんなに土下座して謝る。ヤスオとタイチはとても許せないと憤るが、リュウヘイがもういちどやり直そうと言って、バンド活動はその後も続けられる。

同じような話がオケで起きたらどうなるだろうか?
あるアマオケがあった。ある大学のOBを中心に出来たオケだったが、発足後そろそろ10年になろうとする現在、いろいろな出自の人間が集まり、演奏レベルもかなり高いとの評判を得ていた。
団長は発足当初から大石(Fg:IT企業勤務)が務めており、会計は大石の大学の1年後輩の斉藤(Vl:公務員)がこれも最初から務めていた。
オケの団費は毎月5,000円で、そのほかに演奏会や合宿ごとの徴収があり、けっこうな金額が集められていた。団員の間では、大石の顔の広さでそこそこ有名な指揮者Yが指導に当たってくれていると思われており、特に問題視されることはなかった。
ところが、最近入団した仁科(Hr:電気メーカー勤務)は、オケの体制変革を図り新たに指揮者Zを呼ぼうと目論んでいた。費用的な面からも理論付けをしようと現執行部に会計報告を求めたところ、大雑把で曖昧な費目があったので、領収証や細目の提出を求めたが、満足のいく説明はなかった。厳しく追求したところ、指揮者Yの遊興費(愛人との旅行代等)に当てられているらしいことが分かった。大石はYの頼みを断りきれず、またおこぼれにも与っていたらしい。斉藤も然り。

このケースで、この後オケがたどる途として予想されるのは、次の3パターンである。
(1)仁科がオケ改革の先頭に立って不正を正し、大石や斉藤を辞めさせ、もちろんYも辞めさせ、新たにZを呼び、ついでに自分が新しい団長に収まる。
(2)仁科が大石を追及するが、なにぶん大石シンパが多く、また指揮者Yと袂を分けようとする者は少なかった。仁科はいづらくなって退団。オケは会計問題は特に不問に伏せたまま、これからちゃんとやるということで、従来どおりの体制で運営される。
(3)オケが仁科派と大石派に分かれて大論戦する。結局これで2つに分裂する。分裂当初はどちらのオケも力と金を注ぎ込み、優秀なトラを集めまくってそれなりのレベルの演奏会を開いて覇を競っていたが、やがてどちらのオケもしょぼくなっていった。

バンドの3パターンとオケの3パターンとでは、どこが違うのであろうか?

注目すべきは、バンドの場合のパターン(1)である。
金のことでメンバーがもめてバンドが解散する。いかにもありそうな話ではないか。(*2)

一方で10年近くのキャリアを積んできたオケは、金銭問題が発生しても、解散するという発想は浮かんでこない。組織の存続が前提として考えられている。オケの場合のパターン(3)で、オケが2つに分裂するというのも、組織の存続が当然視されているからであろう。

つまり、組織がある程度大きくなると、それ自体として存続を求める力が働くということなのである。
そうなると、会計的な面においても、監査という自浄のための作用が必要となってくる。
ただ数人がワイワイやっているだけの段階の集まりでは、そんなことはいちいち気にしない。

上の例では、オケとの対比としてあえてバンドを出してみたが、アンサンブル団体としても当てはまってくるのではあるまいか。

問題は、その境目がどこにあるかということである。
10人くらいになると、十分に組織存続本能が生まれてくるような気はするのである。


(*1) 本稿に登場する人物は、もちろんすべて仮名である。団体等について、具体的なモデルがあるわけでもない。

(*2) 金でもめてバンドが解散するとは、いかにもありそうなことだ、と書いてはみたが、実際には少ないかも知れない。ここで想定しているのはアマチュアとしてのバンドであり、金銭が大きく動くプロ等の場合は話が別である。実際に解散(冬眠を含む)の要因となるのは、メンバーの時間が合わなくなるとか、目指す音楽が違ってくるとか、メンバーの力量が合わなくなるとか、メンバーが別のバンドのやつと一緒にやりたくなるとか、そんなことが多いような気もする。

2007年9月 4日 (火曜日)

PISTONの会計は、ずっとS川さんがやっている。
まあ、S川さんがいなかったらPISTONは成り立っていないであろうというのは、共通認識である。

ところで、S川さんは毎回の演奏会のたび会計を取りまとめ報告をしてくれるのであるが、PISTONではこれを特に監査するということはしていない。
厳密に言えば、していないということはなく、みんなで会計報告を見て確認をしているわけであるが、領収証のチェックとか、預金残高(そんなものがあるのかどうか知らないが)の確認などは、S川さんをすっかり信じて任せきりである。
S川さんが間違えたり、万に一つもないだろうが、S川さんにだまされたりしたとしても、それなら仕方ないだろうとみんな思っていると思う。
きわめて率直な信頼の上に成り立っている関係である。

私はこの状態を批判しているわけでなく、むしろこれを理想的と捉えている。
趣味で好きでやっていることであり、面倒なことは避けたいし、なにより素朴に頼り合う関係が心地よい。

しかし、これがオーケストラ(アマオケ)くらいの規模になると、監査なしというのは厳しいかもしれない。
オケの運営への関わりを疎んできたずくなしなので、発言する資格はないのだが、意外と監査を形式的にきちんとやっているところは少ないのかも知れない。
別にやらなければならぬと言っているわけでなく、そんなものなくてもいいと団員が思っているのなら、それで構わない。私も理想形としては、100人のオケでも素朴な信頼関係でいけるのなら、その方が心地よいと思われる。
とは言え、オケくらいの規模になると、動く金額もけっこうな額になると思われ、また人間関係も複雑になってくるので、会計的にも不正が働く可能性が上がってくることは否めない。
アマオケで年2回も演奏会をして、合宿をしたりなんかしていると、年間に動くお金は1000万円を超えても不思議ではない。またここに、指揮者やトレーナー等のギャラを支払う相手も絡んでくる。何もアマオケがお金を支払う先は彼らだけでなく、練習会場費からホール代から、楽譜代からいろいろあるわけだが、得てしてギャラというのは秘密裡になりやすい性質を持つ。つまり、知らない人にはいくら払っているのか分からないということである。
こうなると、会計で不正を働こうと思うウマミも出てくるし、そのようなバイアスが働く可能性も強くなる。
オケでは監査をした方が安全であろうし、監査をするという労力も無駄ではないと認識されると考えられる。

(つづく)

2007年8月17日 (金曜日)

心臓の方へ通院。
ここは現在の奥さまの勤務先でもあるのだが、今日初めて勤務中の奥さまと遭遇した。

おっ、「現在の奥さまの勤務先」というのは表現に難があるのう。
ここは、「奥さまの現在の勤務先」と順番を入れ換えるのがよかろう。

最近のパターン。

※(1)ステロイド減量→(2)軟便化→(3)回数増→(4)慢性下痢化(=再燃)→(5)ステロイド増量→(6)下痢鎮静化→(7)血便増加→(8)回数減→(9)便普通化(=緩解)→※(最初に戻る)

現在は上記サイクルの(7)段階にある。
一度良くなる前に妙に血便が増える段階が見られる。謎。

2007年8月14日 (火曜日)

たとえば小学生の子供が3~4人で遊びに行こうとしていたとする。
信号が赤に変わろうとしていたが、リーダー格の子が渡っていく。
この場合、後ろの子たちは、渡るときにはもう赤なのだが急いでリーダーの子について行かなくてはならない。

何故なら、それが仲間との和を大切にする日本人として、正しい行動だから。

上司と得意先へ訪問しようとしていたとする。
駅のホームに着くと、ベルが鳴り今にも電車が出ようとしている。上司は電車に向かって走り、閉まりかけたドアをこじ開けて乗り込もうとする。
この場合、部下は駅員の制止を無視しても、上司と一緒になって電車に乗り込まなくてはならない。

何故なら、それが仲間との和を大切にする日本人として、正しい行動だから。

そんなふうに育ってきた日本人であるから、たとえば、お役所が国民のことを考えずに自己の組織の保身に走るだとか、会社が顧客のことを考えずに自己の組織の保身に走るだとか、そういう批判をするのは難しい面があろう。

2007年5月17日 (木曜日)

「あってはならない」という言い回しがある。

どのような場面で使われるかというと、例えば、いわゆる不祥事を起こしたときの企業のトップの記者会見であるとか、職員が罪を犯した官公庁の幹部の記者会見であるとかである。
曰く「このたびは××なことがあり(*1)、誠に申し訳ありません。このようなことはあってはならないことで、今後は○○を行い再発防止につとめていきたい(*2)と思います(*3)
このくらい言えれば、1回目なら許してもらえるという感じである。
私としては、(*1)「××なことがあり」という言い方に主体的な関与の薄さを感じ(天災ならいざ知らず)、(*2)再発防止に「務める」のか「勤める」のかはたまた「努める」のか曖昧さを禁じえず(わざとボカしておくというテクニックだけどね)、(*3)思いますとは何ごとだ、(*2)(*3)合わせて「再発防止を図ってまいります」くらいまでは言えないのか、と思うわけである。
しかし、それはよしとしよう。

訳が分からないのは、「あってはならない」である。お前は全知全能の神か?という言い回しではないか。

今回当庁の職員が痴漢行為を働きました。このようなことはあってはならないことで、誠に遺憾に存じます。今後このようなことがないよう、指導を徹底してまいりたいと思います。

世の中何が起こるか分からないのに、あってはならないという言い方は不遜ではなかろうか。
また、行為主体の責任に対する言及を巧みに避ける言い方となっており、いかにも何かの間違いでことが起きてしまったという雰囲気を醸成する。

率直にこう言うわけにはいかないのだろうかといつも思う。

今回当庁の職員が痴漢行為を働きました。このようなことはやってはいけないことで、被害者および社会の皆さまに深くお詫び申し上げます。
当該職員は規定に基づき△△の処分にしました。今後の再発を防止するため、職員への指導を徹底してまいります。

「あってはならない」を問題視するのは、実は受け売りで、たしか誰か弁護士の講演で聞いた話だと思う。
定かではないのだが、コンプライアンスの話だったはずだ。
「あってはならない」という考えはリスク管理上はたわ言で、いわゆる不祥事は必ず起きてしまうことなのだから、その発生の可能性を少しでも減らし、起きた場合の対応を用意しておくのがリスク管理であるという話だったと思う。

言われてみると、「あってはならない」という言い回しはずいぶんと日本的だと思ったのである。
しかも、今では紋切フレーズとなっており意味がほとんどないとも言えよう。

2007年5月15日 (火曜日)

この看板を見て、私は思わず『四の下張』を連想してしまった。20060927_0931_1

四畳半襖の下張事件というのがあって、金風山人作の小説が「面白半分」という雑誌に掲載されたところ、これが猥褻文書販売罪として起訴されたものである。起訴されたのは「面白半分」の発行者と編集長。編集長が野坂昭如であった。

そして、作者金風山人の正体は、永井荷風であるらしい。

事件が起こったのは、昭和47年(1972)年。意外と最近という気がしないでもない。

くだんの原文は意外と入手が難しいような気がする。
この作品は、『チャタレイ夫人の恋人』と並んで、最高裁まで争ったことで有名である(起訴された文学者がそれぞれ高名であったことにも与っているが、それは検察の見せしめ効果狙いの面もあろう)。いずれの作品も読んだことはない。たぶん、内容よりこのような事件になったために有名になったのだと思われ、内容自体はおそらく「何でこれで猥褻罪として起訴されるの?」というように拍子抜けするものと推測される。

2007年4月20日 (金曜日)

長崎市長銃殺事件からの関連で、行政対象暴力について注目されている。

確証はないが、犯人は行政対象暴力を生業、つまり行政へのタカリ屋であったが、これが上手くいかなくなって自棄になったのではないかと推測している。

警察庁が行った調査によると、3790件から回答を得た行政機関のうち、831件が不等要求を受け、要求に応じたのが51件あったという。

要求に応じた、ということは、例えば金銭を支払ったり、利権を融通したというようなことになろう。
これは税金を使って融通をするということを意味する、もしくは担当者の身銭が切られたということを意味する。

彼らがあからさまに不当要求してくるなんてことはせず、一見不当とは言えないやり方でやってくるのが常道であろう。
一見不当とは言えないのだが、一見して不当ということが「分かる」というのがミソである。

2007年4月19日 (木曜日)

長崎市長の銃撃事件で、各政党の幹部から談話が出されたのが報道されていたが、何となく違和感を覚えるのであった。

今も報道合戦がなされている最中なので、この事件がどのように位置づけられていくのかは予想できないが、事件直後の報道で私が直感的に思ったのは次のようなことである。

「この犯人は行政クレーマーだったんだなあ」

行政クレーマーというのは私の造語になってしまうが、要するに行政対象の総会屋ということである。

念を押しておくが、報道から勝手に私が感じたことであり、事実がどうであるかはまったく確認していない無責任な印象論である。

犯人は「市長を殺して自分も死のうと思った」と言っていると報じられたが、本当かよと思ったものである。

いずれにしろ、この事件は選挙期間中という微妙なタイミングでなされたものではあるが、実は政治的な背景などはあまりなく、犯人が突然拳銃で人を撃って殺すとというふざけた殺人事件である、というのが私の認識なのであった。

ところが、長崎市長という立場の重みから、各党幹部の談話は私からすれば違和感が大きいものなのであった。
(以下、まず見つかったのが東京新聞のサイトだったので、ここから引用させていただいた)


安倍総理:
捜査当局において厳正に捜査が行われ、真相が究明されることを望む。

後にこのコメントは「素っ気なさすぎる。言論に対するテロを糾弾しなければならなかった」などと批判を受けるのであるが、私が思うには一番真っ当なコメントである。
各政党のコメントに違和感を覚えたのは、要するに行政に寄生しようとするちんけな総会屋にすぎない犯人の所行を、大層なものに言い過ぎるという点にあるのであった。この点首相のコメントはニュートラルで評価できる。


公明党 斉藤政調会長:
ショックだ。暴力で何か言おうとしたのか分からないが、民主主義への挑戦であり、全く許せない暴挙だ。

まあ真っ当かなと思う。無抵抗の人間に不意打ちで銃弾を撃ち込むという行為は、民主主義への挑戦という以前に、人でなしということだと思うが。

断っておくが、私は自民党員でも学会員でもない。


民主党 鳩山幹事長:
言葉を失う。すべての暴力、特に銃による暴力は絶対に認めてはいけない。日本人が銃を普通に持つ国にしては絶対にならない。こういう惨事をなくしていくため、あらゆる手段を講じていくのが政治の責任だ。

銃刀法の規制は私も賛成である。折しもアメリカであのような事件が起きているのを見るに、そう思う。
しかし、今回の長崎の事件も拳銃で撃たれているわけだ。拳銃なんて、警察官や自衛官でもなければ持てないはずのものだ。なのに一介の暴力団員が持っているわけで、日本にも銃が溢れているのが現実であることが恐ろしい。
今回の事件で使われた拳銃を売った奴を突き止めて糾弾すべしと強力に主張する者はいないのか。


共産党 志位委員長:
蛮行を行った者に対し、深い憤りを感じる。こうした卑劣なテロ行為は、わが国の自由と民主主義に対する最も凶暴な攻撃であって、絶対に許されない。

現在「テロ」という言葉を聞いて多くの人々の頭に浮かぶのは9.11であろう。あの事件は、現在の世界情勢を左右しかねない大きな影響を及ぼしている。しかるに、長崎の事件は、被害に遇われた市長さんがどんなに偉大な人物であったとしても、単なる一殺人事件だと思う。
恐れるのは「テロ」という言葉を使うことによって、犯人が「大したことをしたんだ」と思う風潮が作られることである。確かにテロ行為なんであろうが、テロという言葉は悪魔的な魅力を持っている。
だから、「卑劣なテロ行為」などと言うと逆に犯人がピカレスク的ヒーローに祭られる恐れがある。「卑劣」という言葉もおごりすぎだ。「ずるい」でよい。
そして「民主主義に対する最も凶暴な攻撃」などと言葉を飾る以前に、この事件は「市民の安全を脅かす恐ろしい兇行」なのである。安全第一。頼むぜ、共産党。


社民党 福島党首:
長崎市は伊藤市長自ら先頭に立って、原爆や平和の問題に一生懸命取り組んできた。その意味でもショック。どんな角度からも暴力を許さない社会をつくっていくことが必要だ。

彼女だけではないのだが、今回の事件へのコメントで、「暴力はいかなる場合も許されない」と言った者が多かったが、ウソである。
権力による暴力は許されるのである。でなければこの犯人も取り押さえることは出来なかったはずだ。
亡くなられた市長の功績を讃えるコメントはいくらあってもよい。
しかし必要なのは今回のような理不尽な暴力の発生を抑止するために、取りあえずは早急な捜査をし罰を与えることなのであろう。


国民新党 亀井幹事長:
民主主義国家において暴力によって問題の解決を図る行為は断じて許されない。(国民新党は)政治信条の自由を堅持していく。

民主主義とわざわざ言わずとも、市民の安全の問題だと思うんだけどなあ。

まあ、いずれも政治団体によるコメントだから、どうしても民主主義とか言論の自由とか言いたいのだろうけど。

私が思うには、この事件は、無抵抗の人間をずるくも背後からピストルで撃って殺してしまった(たぶん正面から撃つ度胸がなかったんだろう)という、殺人事件である。

2007年4月16日 (月曜日)

そもそも動物愛護法の保護法益って何だろう? と考えるに、保護される動物の生命や安全などではないと思われるわけである。

この法律が守ろうとしているのは、動物が虐められているのを見て嫌な思いをしたくないという人間の感情なのであろう。大雑把に言ってしまえば、「かわいそう」「ひどい」と人が思う気持ちを汲んでやるということである。かわいそう・ひどいであるから、どうしても好き嫌いがはいる。

だから、愛護動物の線引きの中に哺乳類と鳥類という体温を持った動物ははいってくるわけである。それが多数派の感情なのであろう。そこに爬虫類がはいってくるのは、ヘビとかワニを熱烈に愛する人も多いということか。ともかくこの法律はそう設定しており、それを多数派の感情と考えていると言えよう。個人的には、ペットの価値としてのカエルとへビの違いは分からないけど。

虫がとっても好きという人も多いと思われる。蝶のコレクターなどすごそうだ。考えてみると、蝶が趣味という場合、たぶん採取してこれを標本にするのだと思われる。この行為に対して動物愛護法を適用するのはマズいのであろう。

そしてもうひとつこの法律は、「動物が人に危害を加えないようしっかり管理しなさい」ということも、実は定めているのである。今回ざっと見てみて初めてわかった。動物の愛護及び管理に関する法律という名は伊達ではなかった。

2007年4月15日 (日曜日)

動物愛護法は正式には「動物の愛護及び管理に関する法律」というらしい。

まずお肉を提供してくれるブタさんやトリさんについてだが、畜産農業用の動物は除かれるということか。また、研究実験用の動物についても除かれるということである。ただこれは「動物取扱業」の規制に関してということみたいなので、殺さなければならない場合にはできるだけ苦痛を与えない方法によるとか、研究実験でも動物実験の代わりの方法があるならそれによるなど、動物一般に関する規制はこれら蓄業や実験用動物にも及ぶようである。

そしてこの法律にはよく分からないが「愛護動物」という概念が登場する。


第44条  愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。
2. 愛護動物に対し、みだりに給餌又は給水をやめることにより衰弱させる等の虐待を行つた者は、50万円以下の罰金に処する。
3. 愛護動物を遺棄した者は、50万円以下の罰金に処する。
4. 前3項において「愛護動物」とは、次の各号に掲げる動物をいう。
一  牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
二  前号に掲げるものを除くほか、人が占有している動物で哺乳類、鳥類又は爬虫類に属するもの

だそうだ。

どうやら、蟻などの昆虫は愛護動物にははいらないらしい。
しかし、けちをつけるわけでないけど、素朴な疑問が発生。

トカゲ(爬虫類)は愛護動物になっても、カエル(両生類)は愛護動物にはならないのか。
金魚などのサカナ類も愛護動物にはしてもらえないらしい。ということは、みだりに殺したり傷つけたりしても罰則は及ばないということか。

ふむむ。

あっ、分かった気がする。
これは釣り堀業者を除外するための方策ではなかろうか。あれは見方によってはサカナを虐待しているという要件に該当するかも知れないわけだから。

(続く)

2007年4月13日 (金曜日)

村上ファンドについての裁判は証拠調べを終え来月検察側の求刑があるらしいが、NHKの報道によると村上被告はこう語ったらしい。

「ニッポン放送株で儲けるつもりはなかった。"売り抜けだ"と言われるのは悲しい」

ってあなた、ファンドマネージャーなんだから、高値で売り抜けて何が悪いのだろう?
儲けるつもりがなくて株を取得するのでなければ、資金運用者として背任なのでは?
証券法違反を問われているのは、その方法がインサイダー取引に該当しているかどうかであろう。

絶好調で鳴らしていたときの主張は、(旧来の)株主無視の企業経営体質を糺すために物言う株主として活動するというものだったから、単純な目先の利益が目的ではなく、広く日本の経営環境の改善を目指していたのだということになるのであろうが。

まあ、報道であるからどのような文脈で語られたのか定かでないので、その一部だけを取り出して突っ込んでもあまり意味がないのであろうが。

2007年3月20日 (火曜日)

裁判員制度が導入される。

司法制度改革の一環である。まだロースクールが発足する前に司法制度改革審議会会長の佐藤幸治氏のその件に関する講演に出向いたこともあるが、氏の著した憲法の教科書と一緒で(^^)、通り一遍聞いただけではよく分からなかった。

今の裁判官は一般市民の感覚を逸していると言われる。有り体に言えば、「常識がない」ということか。

そのような状況に対応するためなのか何なのか、裁判員制度は、「国民が刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民の信頼の向上につながることが期待される」として導入されるらしい。また、このような制度導入時の常として諸外国の制度が引き合いに出されるわけで、米欧も同様の制度を採っているとされる。

しかし、裁判における判断形成の一部を一般市民に委ねるというのは、裁判官の職責放棄ではあるまいか?というのが、最初にこの制度のことを聞いた私が思ったことである。

たしかに米国のドラマなどでは、陪審員の心証を得ようとバトルを繰り広げる弁護士の姿が描かれていたりして、そんなに馴染みがないものでもない。でも、日本は「お上」の国なのである。正統的な三権分立の考え方では、行政が「お上」であっても、立法は自分たちが自ら行うものであるし、司法はその自分たちが作った法律に照らして判断をしてくれる機関である。しかるに、日本人の感覚では、これら三権はぜーんぶ「お上」である。お役所から言われたらショーガないのである。国会議員のセンセイはエラいと思っているのである。裁判所は敷居が高く何かコワいのである。このような国民性のところに裁判員制度をポンと持ってきて大丈夫なのだろうか。

というのは余計なお世話であろう。

でも、もしかしたら裁判員になって誰か人を殺した犯人を裁く立場に立たされるかも知れないことを考えると、そのような重責は、よく訓練を積んだプロフェッショナルに任せたいものである。そのために税金を払っているのではなかろうか。

冤罪の可能性だってあるわけだ。そんな事件に当たって、その場の勢いや世間の常識に流されてエイヤで判断したことが、後になって警察のでっち上げだったと分かる場合だってないとは言えない。そんなとき、その被告はもう刑に処されていたとして、愛情深い妻とか子とかが昔の事件と裁判をほじくり起こして、興味本位のメディアが当時の裁判員まで追っかけて「あの陪審はいい加減であった」とか何とかのキャンペーンを張るかも知れないではないか。
そういうリスクを負いながらも、適切な判断をすることを求められるのが「裁判官」という仕事であろう。

だから、裁判官はそれなりのギャラをもらっていいのである。

キャリア、ポストで違うだろうが、一説によると普通にそれなりにやっている裁判官の年収は2000万くらいらしい。それだけのギャラを払う価値がある。

裁判員制度が導入されたからといって、その分、裁判官のギャラを下げるという話はないのではなかろうか。

それに現在の日本の裁判官というのは、おそらく相当優秀な方々ばかりであるはずだ。私には裁判官の知り合いはいないくらいだ(^^)。
もちろん守秘義務があろうが、裁判官からリークされることってほとんどまったくないではないか。過去の出来事についても。

2007年3月15日 (木曜日)

大相撲の八百長。
プロ野球のアマチュアへの金銭授受。
どちらについても「問題ない。どんどんやってかまわない」というのが私のベーシックな価値観である。

その理由は、どちらも興行なんだから、面白いと思われるためにはいろいろ努力してさまざまな方策を打ってしかるべきということである。

ただ、おそらくどちらも「内規」のようなものがあって、そのルールには抵触していると思われる(ただし、法律には違反していない。つまり「違法」ではない……ただし、内規に反したことによる契約違反などが発生して民事上の損害賠償責任などが発生するかも知れない)。そのルールに反したことについて、関係者が問題視し対処するのを責めるものではない。それは筋を通すべきだろう。

しかし、そんな「内規」など取っ払って好き勝手やっても一向によろしいのではないか、というのが私の思うところなんである。

2006年12月16日 (土曜日)

私見だが、自転車に関するルールで一番無理があるのは合図をしなければならないという点である。

そもそも片手を離して運転することを強要するのは危険が高い。しかも右手だ。右手でやるのは車道側の手だから(左側通行である)ということもあろうが、後輪ブレーキを優先するということがあるのだろう。前輪(右手ブレーキ)がロックすると危険とも言われている。しかしブレーキに関しては、前輪の制動力の方が強いわけで、ちゃんと操作するなら、つまり手動でABS的に操作するならばこちらの方がコントロールが効くはずである。滑りやすい凍り道でどうするかは迷うが。
実際の自転車使用者がもっと守るべきは、一時停止と左側通行である。
確かに自転車で一時停止は面倒だろう。運用的には自転車は徐行とした方が現実的だとは思う。しかし優先順序ということを自転車使用者はもっと重視するべきである。信号無視をする輩も多いが、せめて信号無視をしているという自覚のもと走行してもらいたいものだ。無視している方より、ちゃんと守っている人(歩行者、自転車のみならず、バイクやクルマでも)の方が優先されるのだ。特に指定がない場合、右側通行している自転車はちゃんと左側通行をしている自転車よりも車道側を走りクルマに轢かれるリスクを負うべきである。

街中の自転車の傍若無人ぶりは問題視されているが、昔このようなコンテストに出た身としては、確かにいろいろ思うことは多い。あと、メディアが取り上げる自転車問題で私がいつも欠けていると思うものに無灯火運転がある。
少なくとも私の住む地域ではバイクはほとんど全車、昼間も点灯していてくれて大変ありがたい。自転車もすべて昼間(も)点灯するようにしても構わないと思っているくらいである。

2006年11月29日 (水曜日)

1月にかなり具合が悪くなって入院したのは月曜だった。その日、CFの検査の予約を入れてあったのだが、検査してみたら相当悪く、即入院ということになった。ただ、いつものごとくベッドが空いていなかったので、C葉駅付近のI病院に入院した。夕方、2時間くらいかかってIVHを取られ(詳細別途)、ステロイドを点滴されその晩を過ごしたら、翌朝だいぶ具合が良くなった。

差額の部屋でTVはタダだった。その日一斉に報道されていたのは、ライブドアの強制捜査であった。その後1週間はライブドア一色だった。その頃入院ノートに綴った感想がある。このHPにそのうちアップしようかと思っていたのだが、まだデータ化していない。要旨を言えば、堀江氏(当時は被告でもなかった)には証券取引法その他の使い方をめぐって徹底的に闘ってもらいたい、というものであった。

しかるに、最近伝えられているところをみると、誰が主導権を採っていたとか何とか、小さいことばかり言っているようで、詰まらん。こんなんじゃ判例にもならないじゃん。

2006年11月18日 (土曜日)

pilule empoisonnee に関する記事が、本日のラジオ仏語講座応用編の題材であった。
英語で言えば、poison pill。
こういう言葉が、株式実務に関わる者だけでなく、一般的に言われる言葉になってしまったのか、と思った次第である。

2006年9月 6日 (水曜日)

皇室典範は現行憲法と同時に発布されたのか。当然のことながら法律なのね。
(明治憲法下では国会が定める法律ではなく、別の体系だったようだ)

皇位継承問題は、最近でこそ騒がれているが、私が憲法を大学で習った(というほど講義には出ていないと思われ・・・・)頃は、昭和天皇が現に在位していた時代だし、そんなのノーマークだったのではなかろうか。その頃の本をひっくり返してみたが、皇位継承問題について、法学説上は、男女平等を掲げる現行憲法との整合性の問題、ひとたび天皇になったら死ぬまでやめられないという点についての問題が論じられているだけだった。人々の意識として、天皇制そのものについての是非はともかく、天皇(昭和天皇)、皇太子(現天皇)、天皇の孫(現皇太子、秋篠宮)とあって、「男系が絶えるかも知れない」ということを切実に考える風潮ではなかったのであろう。

でも、そんなの容易に予想できそうなもんだが。
皇室典範には第3条のような規定が置いてあるのに。
晩婚化、少子化と、今の日本で取り沙汰されている問題が、皇室について当てはまってしまっている。ちゃかすわけけではないが、まさに象徴天皇制である。
ちなみに、私個人的には、人が結婚しなかったり、日本の人口が少なくなることを社会的に問題視することには疑念がある。

2006年8月30日 (水曜日)

保育園でうちの娘と仲良しのMちゃんは、私に話しかけてくれる。
「今日Mね、ヘビ見つけたんだよ。初めて本物を見たんだ」
ヘビ、いるのである。うちの周囲には。
私もこの前近所の神社の裏の松林を歩いていたら、1mくらい前方をにょろにょろと横切っていったのであった。
田舎にいたときだって、そんなにはヘビはいなかったのに。こんな町中でも、いるところにはいるのであった。

-------

TOBは不調だったのね。アメリカンな目から見ると旧弊な業界なのかも知れないが・・・・メンタリティ的に上手くいかないと思われたし、タイミングが素っ頓狂だったかも。かなりの独断と推測と偏見ではあるのだが、FAの勇み足というか、若気の至りというか、やる気が実はなかったというか、そんなのかしら?

2006年7月24日 (月曜日)

うわっ、王子が北越にTOBかけるの?
今朝のトップニュースはこれであった。社会からドロップアウトしている私には吃驚。
NHKの論調は、「遂に日本も同業同士が買収をしあう時代に突入」。

と思って調べたら、王子が言っている北越の増資云々というのは、先週の金曜(7/24)になされているのね。なるほど。

会社ではいろいろ噂も流れているのだろうし、商事筋の情報というのも来るところには来ているのだろうけど、公開されている資料から見ると次のような図式かな。

3月 王子、北越を傘下に治めようと画策、協議開始。

7月3日  王子、北越に経営統合提案書提出 回答期限=7/24
7月中旬 北越 そんなの受けられるか。対抗策を練る。
7月21日 北越 三菱商事を引受先とする増資発表。合わせて買収防衛策導入発表。
7月22~23日 王子 そう来るか。よし、TOBだ。TOB発表。

いかな王子と言えども、自身だけでこのような仕掛けができるものではないと思われる。
王子についているFAは野村證券なのね。リーガルファームは長島・大野・常松かあ。
北越はどこだっけ?
TOBの行方がどうなるか分からないが、いずれにしろ、特にFAあたりに巨額のお金が落ちることは間違いない。

で、そうかあ、当社も注目されっちゃっているのか。なるほど。

しかし未だによく分からないのは、王子が北越を統合して、独禁法はクリアできるのかという問題である。

2006年6月17日 (土曜日)

朝、音楽教室。あいねさん、いまいち集中しきれずおふざけに走るときあり。要さらい、キラキラ星。

午後SLBE練習@旗の台。自分のパート、保たないじゃん。あかんあかん。

帰って、飯食って夜、臨時理事会。裁判対策。日本も訴訟社会になっちゃうのかねえ。嫌だねえ。そう言えば、日本の某20兆円自動車企業では、PL訴訟だけで常に200件くらい抱えているそうだ。ほとんどはアメリカなんだろうけど。ほかの訴訟も併せればどれくらいなんだろうねえ。毎日1通ずつ訴状が届く勘定なのか知らん。

2006年5月 1日 (月曜日)

今日から「会社法」が施行される。この世紀の瞬間に立ち会えないのは悔やまれる。この数年は、会社法務の世界はほとんどこれをターゲットに動いてきたと思われるし。とは言え、今日から世界が激変するわけではないと思われるが。

とは言え、商法典から会社に関する部分をごっそり引き抜いて新たな法律を作ったわけだし、そもそも商法典で実質的に最も意義を有しているのは会社に関する部分なわけだし、それがすっかり新しくなったというのは、やはり世紀の瞬間と思われる。
商法は明治32年、つまり1899年施行だ。100年以上の命運を保ってきたわけである。前々世紀だぜ。
ちなみに、「六法」というのは、最も基本的な法律とされているものだが、憲法・民法・商法・刑法・民訴法・刑訴法である。商法は、何故か、基本的な法律とされているんだよなあ。

しばらく会社法務の世界から離れているので、こんなブログがあることも最近知った次第である。ずいぶんと時代はラフになってきているのね。まあ、この人は法務省のお役人にしてはくだけた印象の人だけど。