以前(2002年頃)唱えられるようになったときから、私はワークシェアリング論者である。
その時はしばらくして日本の景気が回復し(たとされ)、ワークシェアリング論はいつの間にやら立ち消えになったかの感があったが、昨今の金融危機に端を発する(とされる)不況期において、またぞろワークシェアリング論が唱えられるようになっている。
人事労務担当の目からは、ワークシェアリングというのはあり得ない考え方というのが一般的なのではなかろうか。
つまり、ボーナスでない基本賃金を下げることは最後の聖域であって、それを行うにはとてつもない困難がある。労組(つまり従業員)が納得するわけがない。
このような感覚である。
ワークシェアリングとは、雇用を確保するために、今ある仕事を分け合うという考え方である。
従来は100あった仕事を100人でしていたのに、不況で仕事が80になってしまったという状況に対して、人を20人解雇してコスト削減するのではなく、100人で80の仕事を分かち合うというアイディアである。80の仕事からは80の収益しか得られないので、働く人の給料は今までの80%に減るが、ともかくも雇用は確保される。20人を解雇(日本ではこれをリストラと呼ぶことが多いが)する方法だと、80人は今までの生活水準を保てるが、20人は失業者となってしまう。それよりは、給料を減らしてでも仕事を分け合って、100人みんなの雇用を確保するほうが、社会的安定に資するだろうという考え方である。
一番抵抗があるのは、給料が減るという点であろう。
今までの8割だけ仕事をすればよくて、勤務時間も9-5時だったのが、9-3:30となるとは言え、給料まで8掛けになるのは困るという声が高いであろうことは予想できる。
しかし、私個人はそれでぜんぜん構わなかったりするのだ。
世の中には、3:30に会社が終わったって、することないし、困る、という人も多いかも知れないが、そんな人には言い方を変えよう。
勤務時間は、10:30-17:00になる。
これだとちょっと魅力的に思う人もいるのではなかろうか。
いや、そんな所定労働時間だけ減らしたって、どうせオレの仕事はそんな減りはしないんだから、結局残業が増えるだけで、残業代なんて出るわけないんだから、結局給料は減ってサービス残業が増えるだけさ。
おそらく、これがワークシェアリング論に対する反対論の大勢なのではなかろうか。
いやあ、働く日本人。頭が下がります。
私は、個人的に恵まれているだけなのかも知れないが、給料半分・労働時間半分だったら、そちらを取る。
ちょいとばかり偉そうなことを言ってしまうと、今後の日本社会においてこの問題を考えるポイントは、アンペイドワークをどう捉えなおすか、ということだと思う。
片仮名を使ってそれっぽく表してみたが、要は「家事」をどう捉えなおすかということである。
従来は家事労働が数値として表面化していないため(アンペイドなので、感覚としては無償奉仕のように捉える向きもあり)、家計上「外貨」(すなわち給料)を稼ぐ人(多くは成人男性)の給料がその家計のスケール全体を決めているかのように捉えられてきた。というか、現にそう思っているのが大勢であろう。
いわゆる専業主婦が家事や育児をこなし地域活動に勤しみ、あまつさえ夫の親の介護に身を捧げても、それはアンペイドで金銭的な評価をされないのが普通とされる。
それらの「仕事」は、その家の家計のスケールを計る際には考慮に入れられず、物差しとなるのは夫の給料だけとなっている。
私は別に、それらのアンペイドワークをすべて金銭評価し、金銭を支払うようにせよ、と主張するつもりではない。
そういう家があってもよいが、それはギスギスしすぎると感じる向きがあるのも理解できなくはない。
だがしかし、世の中はこれらのものに対しても、昔よりは金銭評価するようになってきているということは言える。
それは、専業主婦に対して給料を払う夫が増えているという意味ではない。
育児、介護など、昔だったら家庭のなかで行われてきた事項が、確実に「アウトソーシング」され、そのためにペイドワークになっているということを言いたいのである。外食が多い家庭だったら、食事の用意という家事もアウトソーシングしていると捉えることができる。
アウトソーシングすれば、それには金銭が必要となる。
だから、ますます「外貨」が必要となる。
ワークシェアリングなんかして、給料を減らされるわけにはいかない!
ワークシェアリングに対する反対論は、こういう思考経路をたどるのではなかろうか。
けれども、そんな何でもかんでもアウトソーシングして、果たしてそれでいいのだろうかと、このところ漠然と感じているのである。
育児も介護も食事も外に出して、いったい家庭にはなにが残るかという問題だけではない。
会社の仕事といった点でも、何でもかんでもアウトソーシングしていいのだろうかと思うのである。それは外に出したほうが体裁の良いものが出来るけれど、それでいったい中に何が残るのだろうと疑問を感じることがないではない。多少格好が悪くたって、自らの手でやったほうがいい場合もあるのではなかろうか。
喩えは変だが、アンサンブル団体が編曲をすべて外の専門家に頼み、足りないパートは上手いトラを頼みまくって、ハイレベルの演奏を実現したとして、それで面白いと思えればよいが、果たして面白いと思えるだろうかということである。
必要なのは、価値観のシフトなのだと思っている。
果たして、今アンペイドとされているワークを、そんなにないがしろにしてよいのだろうか。
外貨を稼ぐためだけに精魂を費やしすぎるのは、ポートフォリオとして偏り過ぎていて、実はリスキーなのではなかろうか。
(古典的な例として、定年退職後熟年離婚される夫など)
ワークシェアリングによって、我々は金銭的収入の一部を失うかも知れないが、フリーの時間を手に入れることができる。これを契機に、今までアンペイドであったワークに光を当てなおすべきではなかろうか。
これからの日本に求められるのは、金銭的な目盛りだけでは計れない価値観を認めていくことだと思う。アンペイドワークを挙げたのは、その一例である。
別にアンペイドなことをしなくても、フリーな時間に副業をしたってよいだろう。そのほうが雇用リスクヘッジには寄与するのではあるまいか。
こう書いてくると、どうも教科書的になって、上手く伝わらない気がする。
などと偉そうなことを書いてしまったが、単に拝金主義が性に合わないというか、金銭を稼ぐ能力に長けていないので僻んでるだけともいえる。
加えて、単に働くのが嫌いな怠け者なだけともいえよう。消防団に入ろうと思うわけでもないし。